東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

優しさ


午後の授業が始まりそうな時間に、遅刻することに対するちょっと後ろめたい気持ちを忘れさせるような秋空の下、わたしは音楽を聴きながら家から歩いて10分ちょっとの地下鉄の駅へ向かっていた。  

スーパーの道を挟んだ向かいあたりで、歩道と車道を分けている段差に、おばあさんが座り込んでいた。歩きながら、おばあさんが着ている英語が書かれたベストが気を引いた。そのベストは、イギリスの学校の名前のような文字列と、青と緑と赤の鮮やかな色の組み合わせの背景で、小学生のオリエンテーション大会を思い起こさせるようなもので、おばあさんが着ていなさそうなところが印象的だった。  


あれ、おばあさん、大丈夫かな。10メートルくらい通り過ぎたところで、車道のすぐ側に人が座り込んでいることに違和感を覚え、引き返してイヤホンを片方外し、大丈夫ですか?と声をかけた。  


おばあさんは杖を使って立ち上がろうとしながら、ああ、ありがとう大丈夫よ、と言った。ゆらゆらと立ち上がるのを少し不安な気持ちで見守りながら、少し話をした。  


段差を上がるときに、おばあさんは、ちょっと手を貸してくれる?と言いながら、わたしの方へ左手を差し出した。わたしはおばあさんに手を貸しつつ、ああ声をかけてよかったな、と思った。後から、手を貸してほしいと言ったのは、わたしに対するおばあさんの優しさだったんじゃないかとふと感じた。わたしがおばあさんを助けたのではなく、おばあさんがわたしに手を貸してよかったなという気持ちをくれて、わたしを助けてくれたんだと。おばあさんが、わたしが声をかけたことに感謝してくれているということが、手を貸してほしいという依頼から、じんわりと、そしてはっきりと伝わって来た。見知らぬ人に手を貸すということは、借りる人の、見知らぬ人に対するある種の信頼のようなものがないと成り立たない。おばあさんの他者全般への信頼感のようなものを、手を通して一部だけ受けとることによって、わたしは感謝と温かい感情をもらったのだと思う。


おばあさんは、ありがとうと何度も言って、お店の前に置いてある椅子へとゆっくり歩いて行った。わたしは、このことあの人に話したいな、と思いながらイヤホンを差し直して駅へと向かった。


アパートメント

アパートメントというウェブマガジンが好きだ。ここに集っている書き手たちの文章を読むと、心のふにゃふにゃした部分がそのままの弱さで許されているような気がするのだ。

いつ訪れても、曖昧さを美しさとして認識できるようになれるような、懐の広い文章に出会える。偽りのない言葉で、何かをさらけ出している人たち。さらけ出すことを通して、彼らは読み手に何かを分け与えてくれる。その人のことを何にも知らなくても、深いところの断片を覗き見てしまえるという、いたずらをしている時のようなやわらかい背徳感のようなものが好きだ。  

最近では、kumaさんの連載が大好きだった。とにかく、美しくて、あたたかくて、優しくて、はっとさせられる。昔から知っていたような知らなかったような、懐かしいような目新しいような、そんな曖昧ではっきりした感情が湧き上がって、何度も読み返したくなるような、そんな文章。 

 http://apartment-home.net/column/201710-201711/hk08-2/

「存在の祭りのなかへ」

『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

わたしはこの本を読んで、苛立ちと怒りのようなものを覚えた。

それは何でだろう?としばらく気にかかっていて、作者のこのインタビューを読んでなんとなく答えが見えた。

https://sheishere.jp/interview/201709-miekokawakami/2/

なかったことになっていたはずのものを、明るみに引きずりだす。冬子はそういう作者の意思の成果としてわたしの目にとまるところに現れたようだ。

冬子にわたしは自分の一部を投影した。そしてわたしはその自分の一部がすごく嫌い。だからこんなに怒りや苛立ちを抱いた。なんで見ないようにしてたものを見せるの、って。そうやってひきずりだして、どうせ「みんな」と同じように責めたいだけなんでしょ?って。


冬子は多くを語らない。わたしの嫌いなわたしも多くを語らない。自分のこと、思ってること、感じてることを表現する言葉をまだ持っていない。ぎこちなくはあるけど、言葉を手に入れたのがこれを書いているわたし。わたしの嫌いなわたしは語らないままわたしの中に隠れていて、わたしがこの文章を書くのを黙って見つめている。


「語られないものは存在しないのと同じなのか」わたしの嫌いなわたしは、わたしにまで嫌われたまま、外に出ないで黙っている。わたしは存在しないのと同じなの?って怯えて寂しがっている。でも、確実にそこにいる。わたしには見えている。冬子に自分を投影するというやりかたで、言葉を持ったわたしの前に姿を現して、言葉を持った「強い」わたしに、怒りと苛立ちを置いていったから。


わたしは怒りでわたしの嫌いなわたしを守ろうとしたんじゃない。わたしが内面化している「みんな」という名の外からの目線、それが歪んでいることを知りながら、納得できず歪みを修正できないことへの苛立ちなのだ。


大丈夫、わたしの嫌いなわたしも、そこにいるの、わたしは知ってるよ。まだ時間はかかるけれど、あなたのことも愛せるように成長しよう。

逃げで甘え

「良い」ことも「成熟」も「普通」も、頭ではそうするのが普通で便利で有利だとわかっていても、納得というか、身体的にすっと了解するまで、しんどいものはしんどいし、嫌なものは嫌だ。そんなの甘えだわがままだと言ってしまうのは簡単だけれど、断罪したところで了解できるわけでもない。だから、どんなにしんどくても、こうありたいと思う姿に向けて、一歩ずつ苦しみながら進んで行くしかない、と今は思う。


身体的に了解して納得したわたしは、もはやその前のわたしとは違うのかもしれない。うっかりしていると、何か生命をも脅かすような「おかしな」「変な」ものを了解してしまうかもしれない。そうならないためにわたしは勉強する。


普通とか良いとか成熟とかをいったんできるだけ根本的に疑いつつ、「わたし」はどうありたいのかを徹底的に考える。そして、苦しみながら動いてみる。そのための時間と環境が許されているのが今。勉強して、考えて、動こう。今確実にわかるのはそれだけ。


たぶん、こんなことは「みんな」はそこまで考えなくてもすっとわかっちゃってるんだろうな。そこが「わたしの頭の中は全く価値がない」って思う理由。変なとこにつまずくことも含めて、もう仕方ないから、受け入れて「こうありたい」自分に向かって進んでいくしかないのだよ。


逃げの論理なのだろう。こうすべき、にとらわれない楽な方選び続けてたら、どうなってしまうのかっていう不安がある。他人任せで責任感のない子どもの考え方だけど、これも納得して了解しないとなおすの厳しいから。。。


頭の中が洗濯機

妙に気分の良い時機がおわって、体も疲れていて、なんとなく憂鬱になってきた。リズムとして仕方ないから、心と身体をリラックスさせて回復するしかないのだけれど、その一環として文を書くっていうのはいいかもしれない。

このブログって一体何なんだろう。

まあいいや。

最近は、人との距離感に悩んでいる。新しい人間関係を作るのにも相変わらず苦労しているし、もともとの関係を深めていくのにもちょっと困っている。

相手にそのまま提示するにはちょっと重すぎるまでに育んでしまった一方的な思いを、隠すことによってなんだか不誠実なことをしているのではないかという気になっている。でも、相手のことを考えているようで、実はそれも相手に思いを伝えたいがための言い訳に過ぎないんじゃないかとも思う。

頭がふわふわして心がふにゃふにゃする

最近、気分が良すぎて怖くなるくらい。

朝、秋空の下駅まで音楽を聴きながら歩くのが幸せ。

駅のホームの端の細くなっているところが好き

上下線に2つずつホームがある、急行は止まるけれど特急は止まらない中くらいの規模の駅で、ホームの端の細くなっている部分の真ん中に立って、両脇を同じ方向へ電車が通り過ぎていくのを眺めたい。

ホームの屋根とコンクリートの床との間の空間が、一瞬のうちにぱっと埋まり、見えていた夕焼けと派手な看板広告、前の駅からカーブしてくる線路とビルが消えて、しばしわたしの周りは電車だけになる。右側、ちょっと手を伸ばせば手が届きそうな距離を、容赦ないスピードで特急電車が駆け抜けて行く。左側、スピードを落としながら各停電車がホームに入ってくる。

その2つに囲まれる瞬間、まるで異世界に移動したかのような感覚を覚える。わたしの左右にあるのは、金属でできた無機質な壁に見えるけれど、ほんの5センチ外側には、生身の人間がたくさんいて、猛スピードで移動している。信じられない。

ほんの5秒後、右側では壁がとっくの昔に走り去り、空と看板広告が戻ってくる。左側の後方では、壁が電車へと変わり、車両ごとに乗客の何人かがホームに降りる。そして、わたしは元の世界に引き戻され、次にやってくる電車に乗るために、混雑状況を横目で見ながら、ベンチに空きがないか確かめにゆくのだ。