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東京日記

思ったことや読んだ本の記録。

またよくない傾向

1日に1分間の幸せなときもなくなり、焦燥感と劣等感と自己嫌悪につつまれる。

私には何もできない

論理の世界が掬うことのできないなにかと、幼児的全能感的ななにか

言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。

日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。

ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。


言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。

そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?


『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』

他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。



…このように私が感覚を論理と対比させたい理由は、「思考したぞ!!」と思って文章にしようとしたら全く論理的にならなかったり、「やばいこの映画にちょー感銘受けたわ」って感想書こうとしたら5行で終わったり、っていうのに対する悔しさにある。文章が書けないという事実から自然に導かれる「自分はあまり深く考えられない」ということ認めたくないから、「私は論理より感覚に優れているんだ!論理で表現できない尊いものが私の頭の中にあるんだ!」って主張してるってこと。欲望に遡るという苫野さんの『はじめての哲学的思考』のやり方に従って(いるような気になって)みると、私の論理・感覚の対比の本質は「自分を特別な存在だと思うこと」「幼児的全能感を引きずっちゃってる青年」とかを掘り下げたところにある気がする。それってこれまでの人生で培ってきた変なプライドとかで説明つくのかなあ。(やっぱりプライドとかで片付けちゃうのはプライドが許さない…ってなって無限ループしそう笑)


…まあ、そんなひねくれたこと言わずに論理的に考えたり書いたりできるようになるための訓練を地道にやっていこうじゃありませんか。


はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 苫野一徳
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2017/04/05

好きなものは感染する

最近久しぶりに好きだった人と遊ぶ機会があって、やっぱり好きだなあとなって切なくなった。ただその「好き」は必ずしも恋愛の「好き」じゃなくてもいいな、とも思えた。その人には1年付き合っている恋人がいて、私はその子のことも知っていて、お互い大切な存在なんだろうなあというのがそれぞれと話しているときにちらっと見える。好きな人と恋人との間には関係性の積み重ねがあって、そこには私の入る余地なんてない。


好きなものを共有して幸せを感じたり、何気ない優しさに心がじんわりしたり、目を合わせて笑うだけですごく楽しかったり、そういう気持ちはやっぱり否定できない。それだけだと親友に対する好きと変わらないな、とも思うけれど、隣に座ってると心地が良いし、なんとなくいい匂いがする気がするし、手を見てると触れたくなる。割り切らないといけないし割り切ったと思ったのに、やっぱり惹かれてしまう。でもその魅力の一部はあの子のおかげなんだよね。


大切な友達としてこれからも関わっていけたらいいな。

あたまよくなりたい

今の自分にとってちょっと重要なテーマについて考えてたらわけわかんなくなった。ほんとあたまわるい。

筋道立てて考えるのは苦手で、それを言葉にするのはもっと苦しくて、自分なりに考えて新しい世界の見方を発見したみたいな感動を覚えることがあっても、それを外に出した瞬間に相手にとっては何の価値もないかすでに生きる前提になってるってことがわかるの、なんとも言えない気持ち。

価値のツウヤクフカノウセイかな。タヨウセイ大事にしていきたいね。



深い話

相手のものの見方とか大事にしているものが垣間見れるような話ができるとものすごく楽しい。ただ同時に自分の薄っぺらさに愕然とするけれど。そして相手の深いところが出てると思うのもこちらの気のせいでしかないかもしれないし、たとえ深くてもその人が大事にしている中心とは似ても似つかない端っこの方の深いところかもしれない。それでも話してる方もそれなりに楽しいと思ってくれていると信じたい。雑談をしばらくの間積み重ねた上で、ほんとにたまーにしかできない話だからこそ貴重な瞬間で、大切にしていきたい。

うん、まあ。

周りの人たちが自分が見ているのとは全く違う世界をある程度共有しているのではないかと思うことがよくあって、そのたびにそんな自分が嫌いだなあと思ってしまう。笑いを交えつつスムーズに会話する方法とか、気づかいを自然にするやり方とか、新しい集団に溶け込んでいくために必要なこととか、みんないったいいつどこで覚えたの…?

自分だけみんなとずれたところを大切にしている。自分だけみんなの会話についていけない。自分だけ…。

そして、自分よりもみんなとのズレの度合いが高い人を見つけると憐れみ、蔑み、嫌悪し、安心する。みんなに溶け込めないことって、そんなにいけないことなの?みんなのルールがいまいちわからないことって、そんなに愚かなことなの?

私はフェミニスト

私はフェミニストである…と言いたいところだが、フェミニズムがいまいちわかっていないし、それを表現することによって被るであろうめんどくささに尻込みしてしまう。

でも男女同権主義的主張が好きじゃないと女の私に言う男がいたら、こっちも私はフェミニストだって堂々と言えばいいよね。

まあでも「〇〇の主張(をする人)が苦手」「〇〇に反対」の関係って、別にどちらかが逆でも矛盾しないから相互関係はないのか。「〇〇の主張(をする人の主張の仕方の傾向が)苦手」とか「〇〇の主張(をする人に多い性格が)苦手」であれば、「〇〇に賛成」と両立するし。けどどちらにしても前者の主張にはある程度偏見は入っていそうだし、全体として〇〇にネガティヴなイメージを持っている可能性は高いね。
そういう無意識の判断によって私は「男女同権主義的主張は嫌い」という彼の意見に「男女同権に反対なのかな…?それを女の私に言うってなんかちょっとやめてほしくない…?」というなんとも言えない気持ちになっにのだなあ。実際どうなんだろ、聞いてみればよかった笑。

そしてそんなことを思いながらも何も言わずに「へーそうなんだ」とおとなしく聞いておく私の態度も、「女は人の意見に反対などしないで従っておくほうが品がある」というフェミニズムが無効化しようとしている類の価値観を反映しているものかもしれないというところがまたなんとも言えない。