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東京日記

思ったことや読んだ本の記録。

思考について

自分の思考を外に出そうとする時に、一旦表現やそもそも発信すべきか否かを省みることは一般的であろう。その場にいる個人を攻撃する発言であったり、隠しておきたい感情が滲んでしまうような場合は表現を変えたり発言を控えたりすることが必要になる。


しかし、思考の内容を外の基準に照らして修正することが習慣化してしまうと、思考は発展しなくなる。思考は意識して行うプロセスというよりは直感のようなものであり、まず直感を言語化することで初めて言語を用いた空間的ないわゆる「思考」が可能になるからだ。


「思考」の元になるものは、捉えにくいがゆえに無意識のうちに抑圧されることも少なくないだろう。過ごしている環境への適応に不利になるような思考は、特に自分で生活を維持できない子ども時代、発信する前に外の基準に照らす無意識の段階で淘汰されてしまうのではないか。失われた「適応に不利な直感」は、生き残るための条件が異なる環境に身を置くなどの変化がない限り、大人になってもそのまま陽の目を見ることがない。適応に有利な直感だけを用いた思考が無意義であるとは言わないが、自然に湧いてくる直感を発展させる方が広く深く「思考」できるのではないだろうか。


よって、思考力を鍛えるには、自由にものを考え発言する場を確保することがカギとなる。また、環境を変えることは難しいが、多様な環境から生まれた他者の直感の結晶としての芸術や論文に触れることは失われかけている直感を取り戻すことに役に立つだろう。


…中高を振り返って思ってることをまとめてみるとこんな感じになった。これに答えを出している方々の文章に出会って思いを深めていくのじゃ!
文1つ1つにツッコミ入れて根拠があるものはそれを引っ張ってきて膨らませるのめっちゃ面白いだろうな。あとは経験と一緒にしてエッセイ的な感じにしても良い。
人に伝わる論理的な文章書きたい( ;  ; )

『lalaland ラ・ラ・ランド』感想 夢見ることは素敵

期待のミュージカル映画ということで、早速『lalaland』観てきました!


女優を目指すミアと、オリジナルに近いジャズの復活を目指すセブの、どこかで見たことがある感じのラブストーリーで、ところどころにダンスや主演2人の歌が入るけれどミュージカル映画感は薄かったかな。


『セッション』は見たことがないので監督のことも全然知らないし、ラブストーリーも実体験がなくてあまりわからない私がこの映画から受け取ったメッセージは、「やっぱり芸術いいよね!?常識的な価値観に逆らう人、素敵」でした。




<以下ネタバレあり>




ヒロインのミアが元彼を捨ててセブの元へ行った時、その内面の変化がほとんど描かれていないので、かなり唐突に思えました。恋愛未経験女としては理由を見つけないと納得がいかなくて、結局ミアがセブを選ぶ理由が「やっぱビジネスよりアートだわ」にしか思えなかったんですね。


ミアの元彼の兄が中国語を話すバリバリのビジネスパーソンで、ディナーの席での彼らの会話も(細かくは覚えていませんが)テンプレ的な「アートを軽視する経済人」のそれに聞こえました。芸術の道を目指すミアにとっては居心地の悪い席だったことでしょう。そこに流れるセブが弾いていたピアノの曲。これはセブの待つ映画館に行くしかないですよね。


時は流れ、ミアが女優として大成功し家庭を持った後にセブと再会するときにも、「やっぱビジネスよりアートだよね!?ほらね??」という監督の声が聴こえました。あのピアノ曲を聴くミアの、実現することのなかったカラフルな幻想。切ないですね。成功を収め、幸せな生活を送っているけれど、共に夢を追いかけた過去のキラキラした想い出には叶わない。


…はい、まとまらないしなんか違う気がしてきました。まぁとりあえず夢を追いかけよーぜってことですよね笑。


個人的には、圧倒的歌唱力と涙を誘うストーリーのミュージカルが好きなのであまり好みではありませんでした。ミュージカル映画を初めて見て「こんなもんか〜やっぱ唐突に歌ったり踊ったりするのあんま好きじゃないな」と思った人もいるかもしれませんが、ぜひともこれでミュージカル映画を嫌いにならないでほしいですね。機会があったら他にも試してみよーぜ!と言いたい。




将来の計画

仕事はしたいけれど、自分のためだけじゃなく家族のために時間とお金を使いたい。親孝行もいいけれど、次世代にも投資をしたい。学歴社会の先にある競争社会はごめんだけど、余裕を持って生きていけるくらいのお金は欲しい。

ということで、自己実現要素より公共の福祉要素が高めの職業について結婚して子育てがしたい。だれか結婚してください笑。

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?

自我の呪縛を逃れ社会とつながるには

動くしかない。


「気流の鳴る音」と「被抑圧者の教育学」で、ラテンアメリカに興味わいてきた。相対化とか常識を疑うとか言っても、結局自分の経験の範囲から想像できる範囲にしか思考は及ばないのではないか。(うまく言えない)


そろそろまた異文化に飛び出す季節かな。


どうして人と比べることでしか価値を見いだせないの。どうして自分のことを信じないの。どうして自分のことで精一杯なの。こんな問いに囚われている限り、自我から逃れて社会とつながることはできないの?


本当にじぶんきらい。





青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



二十歳の原点

1970年代的なものになんとなく惹かれる。インターネットがなかった時代。今の私と同じ世代の学生が「社会と実存の間で引き裂かれていた」時代。今よりも遠くの他者が同じ時代に考えていることを知ることが難しかった時代に社会の常識を疑い考え行動した若者に、同時代を生きる若者に対してよりも共感と憧れを抱くから、時代背景に惹かれる。

そんなときに出会った高野悦子二十歳の原点』。1969年に20歳になった筆者が、半年後に自殺するまでの日記。時代柄学生運動に関わっていくところが注目されがちだが、私はそこに本質的なものは読み取れなかった。


成人に際し自らの未熟さと孤独を認識し世間に対してしっくりこないものを感じながら、自分を律しようと意志を固めるところ。行動しなければ、と焦燥にかられながらも意見を固めるに苦労するところ。異性に幻想を抱いていることを自覚し悶々と考えるところや、哲学的で聡明な唯一といえる友の存在、惹かれる異性のタイプまで、自分の中で彼女に似ている部分を意識させられずには読めなかった。たまに出てくる感性が強めの私の一部の人格に、生に対する真摯さと激しさを加えたら、ものすごく似ているはずだ。


この日記が救いになるというのは、どういうことだろう。どのように生きれば死なずに生きていけるかという示唆を与えてくれることだろうか。


私はきっと、孤独と矛盾と未熟を捉える感性を青年期に特有のものとして、生活のために矛盾から意図的に目をそらしつつやり過ごすことを選ぶだろう。学生運動のあと何事もなかったように「社会」に適応していった数多の名もなき学生のように。矛盾に決着をつけるために徹底的に行動することにも、思考することにも、私は耐えられそうにない。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

  • 作者: 高野悦子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/05



社会学にできること (ちくまプリマー新書)

社会学にできること (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 西研,菅野 仁
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11