東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

頭の中が洗濯機

妙に気分の良い時機がおわって、体も疲れていて、なんとなく憂鬱になってきた。リズムとして仕方ないから、心と身体をリラックスさせて回復するしかないのだけれど、その一環として文を書くっていうのはいいかもしれない。

このブログって一体何なんだろう。

まあいいや。

最近は、人との距離感に悩んでいる。新しい人間関係を作るのにも相変わらず苦労しているし、もともとの関係を深めていくのにもちょっと困っている。

相手にそのまま提示するにはちょっと重すぎるまでに育んでしまった一方的な思いを、隠すことによってなんだか不誠実なことをしているのではないかという気になっている。でも、相手のことを考えているようで、実はそれも相手に思いを伝えたいがための言い訳に過ぎないんじゃないかとも思う。

頭がふわふわして心がふにゃふにゃする

最近、気分が良すぎて怖くなるくらい。

朝、秋空の下駅まで音楽を聴きながら歩くのが幸せ。

じんわり好き

恋のはなしをさせてくれ。

かれこれ一年以上ある人に片思いをしているのだけれど、最近その人との距離感が少し変わった気がして、心がざわざわしている。

叶わない恋が切なくて、その人への気持ちを友情だと思い込もうとしたこともあったけれど、やっぱり笑顔がきらきらして見えるし、なんの理由もなく一緒にいたいし、触れたい。

好きって伝えたらどうなるのか。やっぱり困惑させてしまうのかな。わからない。とりあえず今の距離を手放したくはない。とにかく思うことは自分勝手なことばかり。片思いなんてそんなもんだ。

なんて、どこかで聞いたような言葉がたくさんあふれてくる。

駅のホームの端の細くなっているところが好き

上下線に2つずつホームがある、急行は止まるけれど特急は止まらない中くらいの規模の駅で、ホームの端の細くなっている部分の真ん中に立って、両脇を同じ方向へ電車が通り過ぎていくのを眺めたい。

ホームの屋根とコンクリートの床との間の空間が、一瞬のうちにぱっと埋まり、見えていた夕焼けと派手な看板広告、前の駅からカーブしてくる線路とビルが消えて、しばしわたしの周りは電車だけになる。右側、ちょっと手を伸ばせば手が届きそうな距離を、容赦ないスピードで特急電車が駆け抜けて行く。左側、スピードを落としながら各停電車がホームに入ってくる。

その2つに囲まれる瞬間、まるで異世界に移動したかのような感覚を覚える。わたしの左右にあるのは、金属でできた無機質な壁に見えるけれど、ほんの5センチ外側には、生身の人間がたくさんいて、猛スピードで移動している。信じられない。

ほんの5秒後、右側では壁がとっくの昔に走り去り、空と看板広告が戻ってくる。左側の後方では、壁が電車へと変わり、車両ごとに乗客の何人かがホームに降りる。そして、わたしは元の世界に引き戻され、次にやってくる電車に乗るために、混雑状況を横目で見ながら、ベンチに空きがないか確かめにゆくのだ。


最近は気分が良い

秋が来て、涼しくなった。

最近は、気分がいい。

でもなんとなく、いろいろなことができるようになったからといって素直に喜ぶことはできない。

なんか変な感じがするから。

だって、できないときとできるときの私に、一体何の差があるっていうのか?

「やり方を工夫すればできる」

っていうありがたいアドバイスに従って、実際ちょっとできるようになったんだけど、できないときは工夫しようとすらしなかったわけで、

工夫しようとするときとしないときの差っていったら、

気分しかないわけで、

やっぱり気分に左右されてる気がして、

今は気分がいいだけで、

気分がよくなくなったらすぐに工夫をやめてしまって、

またできなくなるんじゃないかって怖いから。

「気分がよくなくならないようにできるだけ工夫すればいい」

ってことか。

それでもなんかやっぱり心配。

気分がよくなくなってからブログを始めたから、気分がいい時のことは記録してないなそういえば、

と思って書いてみたけど、

結局ネガティブ満載なのでした。

非合理的な考え方をしてるっぽいのはなんとなくわかるんだけど、

それでも別にいいじゃんって思います。

そんなの甘いもっとがんばれっても思うんだけど、

とりあえず、

気分がよいままでいられるように、

ご飯と睡眠と運動、

30パーセント〜60パーセントくらいがんばります。

ほんと甘いな。

はちみつは甘い。


【映画】いまを生きる(DEAD POETS SOCIETY) 感想

米国名門パブリックスクールが舞台の青春映画。   

素直に感動することができずもやもや感の残る映画だった。数年後に観たら全く違う感想を抱いていそう、というか抱いていて欲しい。いまを生きることの魅力に気づくことと、それとともに訪れる順応を巡る葛藤は普遍的なものなのかなと思った。   

キーティングが去る時に、教室の全員が立ったわけではないのがよかった。俯いていた生徒たちは一体何を思っていたのだろう? 順応を教え込まれることと、詩的な自己表現を徹底されること、どちらにしろ大きな方針と馴染まない人間は必ずいて、どちらが不気味で抑圧的なのかわからなくはないか?庭を歩き回る授業や内気な生徒に自己表現を迫る授業に「気味が悪い」と思うことと、詰め込み授業に「くだらない」と思うことは非対称なのか?  

このような煮え切らなさを感じさせるのは、物語の舞台が「学校」であるからであろう。 

映画をつくっている人たちは、「詩」を愛する「自由思想家」で、詩的なものを讃える声が作品の背後から聞こえるような気がする。その一方で、礼賛しっぱなしでは終わらないところがよかった。

だからこそ感動しきれないわけだが、今の、目の前に広がる順応しないと生きていけなさそうな道への恐怖心と不安で自由思想家の生き方に少し懐疑心を抱かざるを得ない心情にも寄り添ってくれる。  

 結局何が正しいのかわからない。青臭い相対主義からはまだ抜け出せないようだ。詩的なものと順応は両立すると信じたいことだけは確かだ。彼らが辿るであろう道を自分も一緒に歩んでいくしかない。

祭りの後

心に渦巻く問題を、見て見ぬ振りをする習慣がついてきた。切実だから真正面から向き合うのは苦しいし、忘れないと日常生活を上手くこなせない。何より、他の人たちがこんな「青臭い」問題に手を煩わせずにすらっと生きているように見えるから、向き合うこと自体が痛々しく思える。でもきっと、わたしに見えないだけで、あの人も、あの子も、みんな実存に関わる問題を抱えていて、自分なりに対処しながら生きているはずだとも思う。


少し前までのわたしは、頭や感覚を鮮明にして、自分や実感を表現する仕方を手に入れようともがいていた。なのに、今はどうか?適応のために努力しようと言いながら、楽なものに逃げて、ぼんやりしているだけではないか?そんな風に適応したって、生きている実感は得られない。孤独や虚しさに蝕まれるだけだ。


ふとしたときに、身体に染み付いた受動性に気づいて悲しくなる。けれど、何かを言い切ってしまうのは怖い。