東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

小休止

ここ最近もやもや思ってきたことを(やるべきことそっちのけで)書いてみたら、久々に新しく始めたことを三日以上続けられました。せっかくなのでできる範囲で続けてみようと思います。

言葉にして頭の中を整理することで、同じことをぐるぐると考え続けてしまう癖を治すことができればいいなと思います。私は人と考えを共有して意見を交換することで思考が前に進むタイプなのですが、今は思うことを共有できる仲間がほとんどいません。寂しいです。ブログも始めてみたはいいものの人に読んでもらえるような状態になることが想像つかないので、メモのように使用するしかないのかなと思います。

1週間前に考えていたことが他人の考えに思えるほど、めまぐるしく頭の中が変化しています。それを自分で時間差で観察するのも楽しいので、自分で過去の投稿にツッコミを入れるのもありですね。

とりあえず今日はこれだけ。

都会人と田舎人

東京は人が多い。今住んでいる駅は都心まで電車で30分ほどかかる郊外なのだが、とにかく人が多いと感じる。地方なら確実にシャッター街になっているような規模と店の種類の商店街でも、閉まっている店は1つもないしチェーン店もたくさん入っている。土日は家族連れがたくさん公園にいて、ホームセンターも大盛況。地元では物心ついた頃から年々子どもが減り、店も閉まって行く様を目の当たりにしてきたので、ギャップに驚くばかりだ。つい最近、実家の近くの結婚式場が斎場になった。人口構成の変化を如実に反映しているようで、未来の街の様子はお察しだ。

地方の人口減少の一因は少子化と止まらない若者の都市への流出であるのだが、私自身も流出した1人で、将来的に地元に帰る気は全くない。職はない、愛着はない、街の未来に希望もない。我が家は近所付き合いも少なく、小さいころから学校以外地域に特に思い出はない。親もそこに根付いている訳ではなくただ住んで働いているという感じで地域に愛着はないようだ。

東京で生まれ育った友人が、地方へ旅行に行って「田舎には魅力がある、多くの人に行って欲しい」と言っていたり、地域活性化の活動に携わったりしているのを見るとなんとも言えない冷めた気分になるのだが、なぜだろうか。おそらく地方出身であるのに全く地方のことを考えなくなった自分自身への落胆と、都会人に田舎のことがわかるかよという、傲慢な冷やかしの目線である。

東京に引っ越してきた当初は地方と都会のギャップに驚き、事あるごとに両者を比べては都会の有利さを地方にも少しはもたらせないのかと義憤に駆られたりしたものだが、1年半経ってすっかりそんな気持ちもなくなった。最初は「地方」は自分の生まれ育った土地を意味していたが、時間の経過とともに愛着が薄れ、また将来に地元に住むという選択肢がほぼなくなったことによって「地方」が任意の土地を指すようになり、地方の話題に当事者性を持てなくなったのだろう。

そんな田舎人もどきの私が、数々の地方に実際に行き、ある種異文化からの目線でもって魅力を体感し、さらにそれを発信してゆく都会人の彼らを冷やかしの目で見るなどというのは、明らかに愚行である。暖かく応援しなくてはならない。しかし、複雑な気分は拭えない。私の故郷に住んだとしても魅力があると言えるのか?と試したいのかもしれない。自然や美味しい食材など、彼らが良く言うような一般的な田舎としての魅力は理解しているつもりだが、それ以外は何もない。本当に何もない。彼らと私、都会人と田舎人は、見ている世界が違うのであろう。

考えすぎないこと

頭の使い方の傾向として、論理派と感覚派がいるすれば、私はおそらく感覚派である。行動の指針となるのは、いつもなんとなくの直感やひらめきで、行動の理由を言葉で説明できるようになったのは最近のことだ。

感覚派の人は論理派に憧れるが、論理派の人は感覚派になりたいなどとは思わない。それだけ、実生活で論理が必要とされ役に立つものとされているからだろう。しかし、「直感は最強の論理」という説もある。人間の本能的な直感を大切にして考えすぎないほうが何事もうまくいくなどと聞いたこともある。

論理派が多いと思われるコミュニティでは、行動の理由を尋ねられることが多かった。最初は面食らったが、それに対応しているうちに言葉で説明する力がついたと感じる。言葉=論理ではないにしろ、少なくとも直感はそのままでは言語化できないはずなので、言語化ができるようになったのは論理の力を少し手に入れたからだという解釈は間違っていないのではないだろうか。感覚派が論理力を身につけたらきっと最強である。ポジティブにいこう。

とはいえ論理的であることが一体どういうことなのかは、さっぱりわからない。思考という実体が全くつかめないものに関して、大人や学生がこぞって「論理的思考は大事」と言っているようでなんとなく不気味だ。説得のツール?人類共通のルール?なんだそりゃ。人生経験を積めばいつかわかるようになるのか。

最近、人から考えすぎとよく言われる。あなたが考えなさすぎなのでは、となんとなく反発したくなる。しかし自分の内面を材料にして思いを巡らせているのは全くもって非生産的で無駄な営みである、とは思う。考えすぎというよりは、自分の感情に注意を向けすぎているという方が正しい。内向的な性質の価値は認めていきたいが、内側ばかりでなく外側を向いた方が楽だ。思ってばかりいないで外に出て身体を動かそう。

考えることと自称進学校

考えるということを意識し始めたのは、1年くらい前のことだった。中高とずっと勉強が得意で受験もうまくいき、「私は賢いんだ」と思い込んでいたのに、周りの人より考えられてないと気づいた。

常識を疑いその外に出る、という頭の使い方を、私は最近まで知らなかった。ここでの常識というのは、生きている環境で支配的な価値観という意味で、ここでは中学生や高校生なら学校や友達の中で共有されている「勉強と部活を両立するのが素晴らしい学生生活」というようなごく狭い価値観を例とする。

地方の公立進学校で高校3年間を過ごしたが、学校は嫌いだった。部活と勉強、さらには学校行事にまで精を出す優等生で、受験もうまくいった。友達にも恵まれ、楽しい思い出にあふれているのに、どうしても高校のことを思うと恨みのようなものを感じてしまうのである。

息苦しさとでも言おうか。地方の自称進学校にありがちな、個人よりも学校としての受験の結果を大事にする進路指導方針で、受験は団体戦、難関大学に行けば人生安泰と言わんばかりの高偏差値大学礼賛、一年生の頃から学期末には学年集会で受験までのスケジュールをもとに勉強の心構えなどが説かれた。

最初はそんな空気に反発を覚えたものの、受験期が始まるまでにはすっかり学校の価値観を内面化した。成績が良かった上に難関大学を目指していた私は先生に手厚く指導してもらい、無事合格することができた。卒業後、先生に「そんな態度じゃいくら良い大学に行っても将来成功しないからね」という嫌味を言われても、いらっとはしつつ確かにと納得してしまうくらいだった。この言葉は、「高偏差値の大学に行き素直に規則に従う人が成功できる」という窮屈すぎる価値観をうまく表現していると思う。そんな態度とは、校則より少しスカートが短かったこと。確かに校則を破るのは良くないかもしれないが、卒業生に対して将来をダシにした嫌味てでそのことを注意するのはいかがなものか。成功にしたって、出世のことを言っているのかどうか知らないが、私と先生の思う成功が違っている可能性は高い。このように相対化できればなんてことはないのに、反発する気持ちを自分で正確に捉えることすらできなくなっていたのである。

高校3年間、本も読まずに受験のための勉強をすることに意味はあるだろうか。数百人が同じペースで講義型の授業を受け続け、良い大学を目指し切磋琢磨することが良いことなのだろうか。大学の先の将来に想いを馳せることを抑制されているとは言えないか。

常識を疑う、それは精神を自由にし生きていくために大事なことである。社会に主体的に関わりながら生きるのに必要な頭の使い方である。
しかし誰も教えてはくれない。自分で見つけるしかないのである。賢い人なら環境に関わらず見つけられるのかもしれないが、凡庸な私は窮屈だけど適応するしかないと思い込んでいた。過去の自分に精神だけでも自由になって欲しいと思う一方、適応するのがいちばん苦しくない道であるとも思う。何も言えない。今の中高生にも同じ、何も言えない。

今の私にとっての考える、とは常識を疑うことである。考えることによって何かが生まれるわけではない。考え方は稚拙で穴だらけだろう。そもそも考えられていないのかもしれない。でも、やっと考える初心者になれたのだ、自分なりの方法で生きるための思考力を少しずつ磨いていきたい。

自立の難しさ

大学に進学して1年半と少し。初秋に特有の物悲しさも手伝って、なんとも言えない孤独感のようなものに苛まれている。東京でできた友だちにはめったに本音を話せない、地元の友だちや家族には話したとしてもわかってもらえない、という心が宙ぶらりんの状態が夏頃から続いている。何かを表現しないと心が枯れていく、そんな気持ちで書いているブログだって誰にも読まれない。言葉が誰にも届かなくなったと思えるとき、人は孤独に絡めとられるのだろう。

環境の変化による自分自身の変化にはっきりと気づいたのは、夏休みに帰省したときのことだった。夏は新しく仲良くなった友人たちと深く話をする機会が多くあり、世界を捉えるときの感覚のようなものを彼女たちと共有できるということに感動を覚えた。思春期以来初めて、心から「自分はこのままでいいんだ」と思えた。アイデンティティの確立という青年期の課題達成されたと喜んだ。同じような感覚を持つ人はおそらく少数派である。少数派であるがゆえに、同調圧力が強く価値観が均質化しやすい地元の学校生活では生きやすくするために無意識に抑圧していたが、大学で似たような感覚を持つ人たちと関わることによって開放された、と今は解釈している。

価値観が少し変わったことによって、親や地元の友達とは話が合わなくなった。話したいことを話そうとすると「なんか哲学的だね、考えすぎだよ〜」と言われ、私は釈然としないまま笑って同意し表面的な話題に変える。このような会話を少し前まで私は心から楽しんでいたのか、と信じられない気持ちだった。

過去の自分を思い出しながらもやもやしつつ取り繕うのがしんどくて、早く東京に戻りたいと思ったが、秋の東京で待っていたのは春までとと変わらない、話し相手のいない生活だった。大学も違って忙しい友人たちにはなかなか会えず、授業が始まると精神的に不安定になって帰省した。苦しいということは東京の友達にも地元の友達にも言えなかった。知り合って日の浅い友達に頼るのは気が引けたし、親友に考えすぎと言われるのは嫌だったからだ。結局親に甘えた。まだまだ精神的な自立なんてできなかった。

自分の内面を誰かに理解ほしいという気持ちは贅沢なのだろうか。内面に誰にも興味を持たれていないと感じることがこんなにも虚しいとは。存在自体にしても帰省して授業やサークルをしばらく休んでも誰にも気づかれなかった。そりゃそうか。

家族に精神的に依存してきた状況から、新しい環境に基盤を築くことは難しいし時間がかかる。私を大切に思ってくれる人たちを大切に思いながら、辛抱強く今の場所にに根を張っていきたい。

「成長しよう」というメッセージがしんどい

最近、「成功のために成長しよう」という大学生に向けたメッセージがいろいろなところから降ってきて無視できないでいた。人生の先輩が大学生自身やこれからの社会のためを思って発しているありがたいアドバイスであると思う半面、それに反応して私を含めた多くの大学生が必要以上に焦燥感に駆られ敢えて何かに追われて苦しんでいるように見えるのは気のせいだろうか。

個人的な話になるが、少し前まで2週間ほど不調が続いていた。平日は何とか授業に出るものの、憂鬱な気分で内容が頭に入らない。友達を見かけても避ける。食べることにしか興味がわかず、ほぼ毎日気分が悪くなるまで炭水化物系の食べ物を摂取する。その結果便秘、体重増加、むくみで自分がものすごく醜いという錯覚にとらわれますます外出するのが億劫になる。一人暮らしで家にいても食べ散らかすだけで風呂にも入らない、洗濯もしない。自己否定が激しくなり将来を必要以上に悲観し、置かれている環境や付き合いのある人たちについての不満ばかり…というひどい状況だった。しかし家族以外には苦しいということを誰にも伝えられず、授業にも出られなくなったところで電車で半日かかる実家に1週間弱帰省した。

こんな時にメンタル面で特に厳しかったのが、FacebookTwitterで見てしまう「成長メッセージ」と友人たちの日々の報告である。SNS上で他人の幸福そうな状況と自分とを比較して精神が不安定になる状態には「Facebookうつ」という名前もついているそうだが、成長メッセージも「こういうところから少しずつ努力して変えていこうよ」=「こんなこともできないのか人間のクズめ、精神が不調とかいって甘えて努力しないと将来のたれ死ぬだけだ、自業自得」という解釈をしてしまうため、キラキラ投稿以上にきつかった。ネガティブな気分のときにはSNSを見ないように心がけようと思う。いくら「キラキラしているように見える人たちだって、良いところしか切り取っていないのだからそんなに卑屈にならなくても大丈夫」「心が不調な時は休めばいいよ」と慰められようと、考えがネガティブなときには毒にしかならないことを学んだ。

私は成長メッセージ対策の方針を定めた。生活習慣を修正することのみに努めることにしたのである。「昼夜逆転・家事できない・やや肥満・ひどい肩こり・友達少ない・姿勢悪い・メンタル不安定・肌荒れ・何やっても続かない」という状況は、基本的な生活習慣が崩れていることが原因であるという結論に達し、一人暮らしでも食事・睡眠・運動がしっかりできるようになることを大学生活の目標にした。自分の世話すらままならないので、「社会のため」などという高尚な理想に関与している余裕などない、というスタンスで成長メッセージをしばらくは撥ね退ける予定である。外のことを考える前にまずは心身ともに健康になれるよう努めたい。

社会貢献を含めたいろいろな活動に精力的に取り組んでいる大学生がたくさんいるが、彼らは自分の世話など余裕なのだろうか。私は基本的な生活に四苦八苦しているので、本当に尊敬する。私などはまさにいわゆる「お勉強だけできるバカ」であると思わず卑屈になってしまう。

いや、そんな風に卑屈になったり焦ったりしている間があったら、食事・睡眠・運動という生活の基礎を、簡単には崩れないように修行しよう。それは必ず将来他人や社会のために動くことに役に立つ。その他のことは今はゆっくり好きなようにやればいい。人にはそれぞれ合ったペースと価値観があるのだから、「成長しよう」という大人からのメッセージに必要以上に振り回されなくてよいのだ。翻弄されて苦しむのは何のためにもならない。