東京日記

痛々しさをつめこむ

人って変わるんだなあ

Twitter見てたら1年半前くらいのつぶやきが自分のものとは思えなくてなんとも言えない気分。こんなに卑屈じゃなくて素直で何かを信じてた頃に戻りたいような戻りたくないような。新しい自分の理解者はまだ居ない。Twitterにもつぶやけなくなって、ブログも誰にも見せるわけでもなくて、ゆっくり話ができる友達も近くにはいなくて、寂しい。

田舎と東京の分断②

(分断についてちょっと前に書いてたもの。まとまりがなさすぎる…)

トランプの大統領選挙当選でアメリカ社会の分断が話題になっている。私は地方から東京の大学に来て生活する中で、18年間生きてきた世界との違いが大きすぎて分断を感じていたので、「そっか気づいていない人多いんだな」という感想を持った。ただのこじつけかもしれないが。

分断を象徴していると思ったのが、中高一貫私立を始めとした進学校で育ってきた人たちの「優秀な人しかいないのが当たり前」という認識である。授業でのプレゼンテーションや事務作業がうまくできない人を責めるような人をちらほら見かけたが、自分にできることが他の人にもできるとは限らないという当たり前の事実を認められないほど、想像力が乏しいのではないか。大学という十分すぎるほど能力的に均質化された環境ですら他人にケチをつけるくらいだから、優秀な人しか居ないようないわゆるエリートコースでしか働けないだろうなと思ってしまった。実際それで生きていけるのだろうから皮肉なことである。

彼らに追いつこうと思って考えることを意識していたら、地元の友達と話が合わなくなった。今まで楽しかった会話が表面的に思えて仕方ないのである。どうやら地方出身あるあるらしい。

地方公立進学校の生徒の評価軸は「部活で活躍しているか」「偏差値の高い国公立大学に合格できそうか」それだけである。ほとんどの生徒はその評価軸を疑うことなく内面化し、受験勉強と部活に励む。ここでも「いい大学に行くことが必要なのか」といったことは一切問われない。

地方の公立中学では、勉強が好きという意思表示をすることは自殺行為に近かった。テストの点数が良いことは罪をかぶるのと同じであり、申し訳なさそうにしないといけない。中学生ごろになると「勉強ができて良い高校・大学に行くと将来は明るくなる」という認識を共有しつつも、全員がその道を進む訳ではないこともわかっている。そのため「みんな勉強は嫌い、嫌いだけどやってる人が成績がいいのだから仕方ない」という、「きつい練習をした人が強くなる」のと同じような物語を共有しないと不公平感が払拭できないのだ。物語の説得力を保つため、「好きだから勉強をして成績がいい」などという生徒の存在は許されないのである。そんな環境であるから「いい学校に行くことが将来を保証すること」を疑うような視点が生まれることはほとんどないであろう。

裏を返せば、中学校はいろいろな社会に散らばってゆく生徒が同じ教室で机を並べて過ごす最後の貴重な時間とも言える。「本が嫌いでテレビと芸能人の話が好き」な人が社会全体では多数派であり、彼らが異星人ではなく隣人であることを身を以て知ることは、社会の指導的地位につく人々にとって重要であると思う。しかし、中高一貫進学校を始めとする均質化されたエリート教育の環境では難しいだろう。

私が高校まで過ごしてきたどの環境にも共通していたのは、メタ的な視点を許さない柔軟性のなさである。自分の置かれている環境を客観的に見ることを許さない同調圧力の下で、子どもは生きてゆくために自分の頭で考えずに所属している社会で常識とされる価値観に従うことを体に叩き込まれる。

このような教育は、どこかで聞いたような言葉を連発するマシーンとそれを賞賛する取り巻きも大量生産しているのではないか。民主主義の崩壊を嘆く大学院生の新聞投書や10万人がフォローする意識高い系のTwitterアカウントがその典型に見えてならない。

自分の意見を持つことを最近初めて知ったので、使い方の加減がわからない。どれくらい共有していいのかがわからないし、柔軟さを持つことが難しい。自分の意見を強化する情報しか集めていないような気もする。対話もできない。

田舎と東京の分断①

社会の分断が話題になっていたが、田舎から大学進学で東京に出てきて生活している中で感じる「地方と都市の差」みたいなのが分断の空気感に似ているなーと思って書いてみた。全然うまく書けない。


私は東京にあこがれて実際に進学させてもらえたけれど、文化的には地方都市で手に入るもので十分満足できる体質のようで、東京にいたほうが豊かな文化的なもので思いつくものといえば映画、美術、演劇、コンサートくらい。映画は大ヒットするようなものがたまに見られたらそれで満足だし、美術展は見てもよくわからない。舞台は好きだけれどS席が1万円くらいもするようなポピュラーなものにしか興味がないからどちらにしろなかなか行けない。このような体質は家庭の文化で育まれたものなので、新しい世界を見ようとしなければずっとこのままだろう。だから文化的な面では田舎でも十分満足して生きていける。
ただし文化的なもので唯一地元に馴染めなくなったな、と思うのが図書館や書店で手に取ることのできる本の種類。人文、社会科学系の本しかわからないが、東京と地元では図書館の開架に置いてある本の種類が全く異なっていて、東京の方が大学に置いてある本に近い。学問分野別に体系的に本が並んでいて、専門的な本にもすぐに触れられるのが魅力的。
一方地元の市の中央図書館は、規模は同じくらいだが開架に置いてある本は実用性を重視しているので、仮にある分野の本を全て読んだとしても、点のような知識が得られるにとどまるのではないかという印象。
両者とも利用者のニーズに合わせて本を選んでいるだろうから、手に取ることのできる本の種類の違いは東京と地元に住んでいる人の違いからきていると思う。東京のほうが大学生も大学教育を受けて専門的な知識が必要とされる職業に就いている人も多いだろうし、利用者に若い人が多いのも関係しているかもしれない。
もちろん地元の図書館でも地下書庫には東京の図書館の開架においてあるような本はあるし、今では田舎にいてもネット通販で大概の本は手に入る。どちらがいい悪いというわけではない。しかし、本棚を見上げて歩き、適当に本を手に取りパラパラとページをめくる、というのは頭の中に線を引くためにはとても役に立つ。ピンポイントで読みたい一冊を手に入れるだけでは得られない発見を、関連する本が近くに並ぶ本棚はもたらしてくれる。そういう点でも頭の開発的には東京にいるほうが有利なのではないかと思う。
例えば、範囲が限定されている点としての高校の授業から、関連する分野を広く学んでみようと思って図書館に行っても、得られる知識がまた点ばかりではなんとなく消化不良になるのは当然。自分の意見を持つためにも線を引いていく学びの面白さを味わうことは重要だと思うけれど、私の地元はそのきっかけを得るのすら難しい環境なのではないかと感じる。

(前に書いたもの。
環境が考えることを妨げている、という話。図書館もそのひとつ。)

図書館で手に取ることができる本の違いと、話ができる友達が増えるにつれて地元の家族や友達とどんどん話が合わなくなることは、価値観や文化の違いに起因する点では同じこと。18歳までに培われたものがどこまで影響を持ち続けるのかはわからないが、今の時点でそれが東京の価値観が幅を利かせる大学生活に適応するのを難しくしているのは確か、というか当たり前である。そして、社会階層の上の方に行くという意味での「成功」は東京の競争的な文化や価値観と繋がっているように見える。つまり、田舎出身の東京民が「成功」を目指す場合には、幼少期に積み重ねられた文化資本の差によってだいぶハンデを負ってるんじゃ…?と思うのだ。特定の価値観に対する親和性は人それぞれだから一概には言えないけれど。他の要因も大いに関わるだろうし。

うまくまとめられないけれど、とにかくなんとなく地元が恨めしい気持ちで、けど嫌いなわけじゃなくて友達も家族も大好きだし感謝もしていて、でも絶対戻りたくはなくて、かといって東京で根無し草のまま生きていく自信もない、実家が東京近郊にあって賢くて活動的で自信に溢れるエリート予備軍の学友たちが羨ましくてしかたない、そんな卑屈な気分を引きずってひきこもっている地方出身大学生のつぶやきでした。私はどうしたらいいんでしょうか。

アンドロイドに暴言を投げつけられると傷つくのか?

バイトで生まれて初めて「バカ野郎」「うざい」「猿以下」などの言葉を面と向かって言われてかなりショックを受けた。会って数ヶ月の店主といちアルバイト、個人的な恨みがあるわけでも何でもなくただイラつきに任せているだけなのはわかっているのに、暴言に心は敏感に反応するのだなと驚いた。同時に、心理的物理的に近いところにいて離れられない人から日常的にこのような言葉を投げつけられている人の心の状態はどうなってしまうのだろう、と思わずにはいられなかった。

感情が込められていないとわかっている、アンドロイドから同じ言葉を投げつけられたらどう思うのだろう?おそらく口癖であろう店主の言葉とそんなには変わらないはずだが、人であるかないかで何か変わるのだろうか。

秋の不調の記録

ここ1ヶ月半くらい気分の沈みがいつになく酷かったが、食事に気をつけて人と話した結果ほとんど元に戻った。1つ前までの記事が自分が書いたと思えないほど精神状態が違ってきているので、時系列で振り返りつつ、気づいたことや思ったことを記しておきたい。

9月後半
大学の授業が始まったころ、人との関わりが薄くなり、ストレスで食べ過ぎてダイエットに失敗したと思ったことがきっかけで調子が悪くなった。1、2年の間は人間関係がうまく築けずに学生生活が楽しめておらず、進級に伴う秋からの環境の変化にかなり期待していた。しかし実際には来年の春まで今までとほぼ同じ生活が続くことがわかり失望して気が抜けたのだと思う。また、夏にダイエットをして4キロほど痩せたのだが、今から考えると減量のスピードが早かったこともあり食欲が増すのは当たり前である。しかし当時はダイエットに成功して自信がつき、体重が増えることにいつも以上に恐怖を感じていたため食欲を抑えられないことにストレスを感じ悪循環に陥ったのだと思う。

10月始めから10月半ばごろ
食べ過ぎて太っていくのが嫌で外出が億劫だったくらいで、授業には興味を持っていて楽しかった。ほぼ毎日お菓子や炭水化物を食べ過ぎていたので過食傾向かなと思い大学の学生相談所に相談に行った。運動不足だったので「食べ過ぎは気にせずに、動くことにだけ気にしたらいいよ」というアドバイスをもらって納得したが、なかなか行動に移せず。

10月終わりから11月前半
夏から昼夜逆転傾向だったので午前の授業には最初からほとんど出ていなかったが、この頃には家から出るのが嫌で午後の授業にもほとんど出なくなり、毎日お菓子や炭水化物ばかり買って食べては寝る、という生活をしていた。気分がとにかく沈んでネットを見るくらいしかできなくなり、風呂も3日くらい入らず洗濯もしなくなった。たまに授業に行くとそれだけで精神的に疲れてしまい、駅から家まで泣きながら歩くという始末だった。サークルにも出ず、授業で会う友達も居なかったので、たまに家族に電話するくらいしか人とも話さなかった。

11月半ばから後半
友達と食事に行ったり、サークル活動に行ったりして人と関わる機会が増えたことと、食事をしっかり食べるようになったことで、だいぶ外に出るのが億劫でなくなった。授業をさぼって空いた時間を趣味にあてて、楽しいと思えるようにもなった。ただし自分の容姿に対する嫌悪感と、家で授業にも出ずダラダラしていることへの罪悪感と焦りは消えず、自己否定がひどい傾向は続いた。

12月初め
今学期は単位をほとんど取らなくても問題はないということに気づいた結果、授業に出ないことをあまり悪いことと思わなくなった。また毎日学食で栄養バランスを意識して食事をするようにした結果、砂糖と炭水化物の摂取量がだいぶ減り体重の増加が止まってダイエット前+1キロくらいで落ち着いた。寒くなったので体型が気にならない服装ができることで外出もそれほど億劫でなくなり、授業にも再び興味を持てるようになった。勉強をしたりちょっとした筋トレをしたり、投資的な時間の使い方もできるようになり、外と関わる活動を始めてみようと動いてもいる。自己否定の感情もだいぶ落ち着き、夏以前と同じような生活ができていると言える。辛かった時期に予約してやっと行けた学生相談所でも、「元に戻りましたー、そういうこと誰にでもありますよね」とカラッと対応できた。


特に②の時期は本当に辛くて、病気なのではないかと疑ったりもしたが、今から見ると誰にでも起こりうるちょっとした精神的な不調であったと思う。メールやSNSに全く返信しなかったり、サークルでの役割の事務作業に支障をきたしたりして迷惑を掛けてしまった人もいるが、それほど悲観することではないように思う(すみません)。自己否定と絶望感の渦の中で食事の改善や人と会うなど行動面から回復に向けて動けたのは、「しんどいときは休んだらいいよ」と言ってくれた母親と、「そりゃーなにもかもめんどくさくなることあるよ、食事も管理するのってとても難しいからねー」といい意味で大したことではないと気づかせてくれた学生相談所のカウンセラーのおかげである。1番きつい時期に「もっと頑張れ」「あなたは病的だ」など言われていたらずっと調子が悪いままだったかもしれない。


今回の経験から学んだことはこの3つ。

①心身はつかながっている
②重大に考えなくてよい
③情報は心の状態によっては毒になる

①については、心の問題に見えても、案外身体から来ている割合が高いなと感じたので、食事・運動・睡眠には気をつけていきたい。②は、失敗やミスを重く捉えすぎてしまう自分の癖が取り越し苦労にもつながって心の負担になっていることを実感したので、もう少し気楽になれたらいいなと思った。③の情報は、SNSから流れてくる人の近況や意見、ニュースや見知らぬ人のブログなどのこと。自分の軸や心を守っている膜のようなものが機能しなくなってしまうと、人の意見や理不尽な事実が頭の中に洪水を引き起こして土砂で心を埋めてしまうことがあるんだなと感じた。心が弱っていると感じたときには取り入れる情報を減らしてみるのがいいかもしれない。

振り返ると本当に大したことないように思ってしまうが、少し前までは本当に辛かった。気軽に心を開いて話ができる友達が少ないうえになかなか会えないことや、東京での一人暮らしや大学生活に馴染めないこと、将来への不安などが消えることはないが、現実に向き合って行動することを大事にしていこうと思う。

しんどい

しんどいけど、しんどいと家族以外誰にも言えない。「しんどかったけど今は大丈夫」という形で発信してなんとか気持ちを保っている。行動しろと人は言う、けどメールに返信しないから何も始められない。運動しろと人は言う、けど動かずに食べてばかり。夜に眠れと人は言う、けど夜は眠くならないからゲームをしてしまう。清潔にしろと人は言う、けど洗濯も掃除も風呂も全てが面倒くさくて続けない。すべて自分でなんとかするしかないのに、しない。親はとことん甘い。自立できない。助けて。

頭の中は無駄なことばかり、そのほとんどは話題にするには適切でないから、自分と対話するしかない。自分は嫌い、嫌いな人と話し続けていると気が滅入るのは当たり前。だけど人とは共有しない。人の話したいことと私の話したいことはずれているから仕方がない。ネガティブなことは外に出すものではない。ますます人と関わりにくくなる。孤独感がつのる。誰かと話したい。何を話せばいいかどんどんわからなくなっていく。助けて。


私はどこで生きてゆくのか

※伝えたい人にきちんと伝わるように納得いくまでしっかり言語化して、もうこの問いはしばらく封印したい。前に進みたい。とどまっている暇はない。

悪循環に陥っているという自覚がある。夢なんて持てない。生活リズムの崩壊と運動不足、炭水化物依存で心身ともに疲弊し、とうとう目標が「まともな生活の維持」になってしまった。留学を夢見ていた私はどこへ行ってしまったのだろう。学問に希望を抱いていた私はどこへ行ってしまったのだろう。

東大にいる「彼ら」と「私たち」の違いに驚いた。「彼ら」とは、裕福な家庭に生まれ都会の中高一貫校で教育を受け、当たり前のように東大に入ってきた学友たち。「私たち」とは、田舎の公立中高出身の全国に散らばった同級生たち。自分の周りのことしかわからないけれど、生きてきた世界と彼らの世界に溝が明らかに存在するのは確かだ。それを階層と呼ばずしてなんと呼ぶ。彼らの圧倒的な優秀さに驚き、それまで自分は賢いと思っていたことが恥ずかしくなった。親が官僚や学者だったり、高級住宅地に一軒家を構えていたりするのを聞いても驚かない。

学歴社会を信じるならば、田舎から東大に来た私は階層差を飛び越えるかもしれない存在。ノブレスオブリージュ的なものを背負うべき存在。だけど、「彼ら」には絶対に勝てない。頭のつくりが違う、実家が東京にあるという条件が違う、自信が違う。本当はそこにコンプレックスを持たなくていいことなんて、わかっている。人はそれぞれ置かれている状況は十人十色で、まとめて語ることなんてできないのもわかっている。自分が相当恵まれていて、能力もあるのはわかっている。だけど不安なのだ。

未来を見て前向きにがんばっている友達がたくさんいる。私は何も継続できない。人とのつながりを保てない。得意なことなんてもはや何もない。人と比べることでしか自信を持てない。こういうところで、まだ受験のことを引きずっている。英語はかなり得意だったのに、まともに勉強しなくなってみんなに置いていかれているという意識で勉強が億劫になってしまっている、情けない。

私はいったいこれから社会のどこで生きてゆくのか。社会とどう関わりながら、何を大切に生きてゆくのか。東京に新しく基盤を作る自信はないし、田舎に帰るのはもっと嫌だ。生きる場所が見つからない。不安だ。自分を甘やかしていないで動くしかないのはわかっているけれど、今は何もかも面倒くさい。自分の世話もろくにできない人間に、どんな大志が抱けるというのだ。不必要なコンプレックスにがんじがらめになっているままでは、前に進むことなんてできるわけない。

人と比べるのをやめよう。マイペースに生きていこう。私は私、自分で自分を認める、結局そこに行き着くのだ。