東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。



学んだことと学んでいないこと

私にとっての「成長」というのはどこかで聞いた「大人」の条件をひとつずつ受け容れられるかどうかジャッジしていくことのような気がしてきた。とすると、大人としての完成形は考えうる大人の定義を全て自らのものにした存在ということになる。
 
しかし、理想の大人の条件は、実際会ってきた数少ない大人の姿やネットと本で得た情報で構成されているものに過ぎず、概念的なものでしかない。
 
生きていくなかで必要に迫られて身につける素質は人それぞれで、その断片が集合的な大人の条件として見えているだけ、と考えると楽になる。それが最大公約数的なもので必ず自分のものにせねばならぬのだとしたら大人への道が果てしなさすぎて困るが、きっとそんなことはない。人間は勝手に成長するものと考えると、ただ変化を恐れず動き続けていればいいだけだ。
 
大人の条件はその人固有のものとはいえ、同じ社会に適応している人同士は似ることになる。しかしそれを集団で他人に押し付けることで凶器になってしまっているのも垣間見た。
 
 
社会への適応と非適応の間、がやっぱり青年期のテーマだという気がする。狭い社会のルールに盲目的に従い幸せを享受してきた子供時代が終わり、自然には馴染めない他者の間で戸惑った結果なんとなくこのままいったら非適応を極められそうだな、という感覚を得たことによって、従順に社会に適応するだけではない選択肢がおぼろげに見えてきた。自己を環境に完全に溶かす方法ではない適応の仕方。
 
 
人とのつながりが大事だと多くの都会の大人が言うが、それについてもまだ納得していないから受け容れられない。今のところは、人間関係が苦手な人間を苦しめる言説としてなんとも言えない気分になる。これも逃げなのだろうか。人と関わるための努力として思い浮かべるのはSNSを使ったものだが、それはここ十数年の技術で容れ物が変わっただけで、本質的なものはもっと別のところにあると思う。その本質的なものが実感として掴めなくて困っている。
 
容れ物だけではなくて、人間関係の質も変化している気もする。今の大学生活で必要と実感するのは人と素早く打ち解けて薄く継続して人間関係を維持する力で、それには確かにSNSが役に立つ。私はこのやり方がわからなくて、怖くて挑戦もしないから経験値もたまらない。失敗してもいいから殻を破ってみよう。
 
ただ、一昔前まで及び田舎では人の移動が今の都会ほど激しくなく、閉鎖的な空間での限られた人とのうまい付き合いみたいなものが重視されてきたことを考えると、SNS的な人間関係に適応するのが難しいのはなんらおかしなことではないとも言える。時代の先端を突っ走る人間及びそれに憧れて行動を起こす若者が、出る杭として打たれるような環境で覆われていた時代が長かったのだ。今もそういう環境の方が多い気もするけれど。
 
視野の狭い平凡な若者一人が見ている世界などほんの一部で、それを元にした自分の意見を発信することがどうしても恥ずかしいと感じてしまう。しかし、批判を恐れていては何も生まれない。
 
とにかく自分がぽんこつクソ冷酷人間に思えて仕方ないが、そんなこと言うのは終わりにして外に目を向けるしかないのだ。周りの大切な人たちも外。全て外。
 
まとまりがなさすぎる文章になった。それぞれのテーマについてまた改めて書きたい。

【ミュージカル】Rent さいこー!

20周年世界ツアーで東京に来ているブロードウェイのRentを思い立って見に行ったら最高だった。当日券の見切れ席でなんと前から6列目、役者さんの表情がはっきり見える位置で迫力満点のパフォーマンスに圧倒された。字幕が思うように追えなくてストーリーは理解しきれなかったけれど、それでもあまりあるほど伝わってくる愛と生を讃えるメッセージに感動。愛すべきキャラクターたちに生きる勇気をもらえた。


どの曲も素敵だけど、特に好きなのは

La vie Bohème

秩序にとらわれないアウトサイダー的生き方を象徴する芸術賛美の歌!リズムが最高、内容も痛快。込められた細かいメッセージがわからなくてアメリカ人でないのが悔しい笑。


Take Me or Leave Me

これはGleeのCDで聴いたときから好きだった曲。MaureenとJoannを知った上で聴くともっと大好きになった。舞台見てるときは結婚式っていうシチュエーションが全然わからなかった笑。


FinaleB

Mimiが最初にOut Tonightで歌ってから繰り返されてきた印象的なNo Day but Todayのフレーズと、AIDSライフサポートでの"Will I wake tomorrow from this nightmare?"、死に向き合ったWithout youが重なり合って最後に前向きな(のかな違う気がする…)No Day but Todayに収束するの、最高すぎませんか?そのあとAngelが舞台袖から出てきたらそりゃあ泣きますよね。


他にも、One song gloryはRojerの哀しみと力強さあふれる歌い方が、Out TonightはMimiのダンスと吠えるような生命力あふれる歌が、最後の方のRojerとMarkの曲は"We're living in America at the end of the millennium"が最高だし、まあほかもすべて良すぎるわけですよ!


映画のオリジナルキャストたちも本当に素敵だったけれど、Angelだけは今回の舞台のDavid Merinoのイメージで固定されてしまった。ほんとーーーーーーーに可愛いかった。カーテンコールの後の舞台袖への去り方まで可愛くて可愛くてしょうがない。もう2度とあのAngelに会えないと思うと寂しい(T ^ T)彼なんとまだ大学生らしい。これからの活躍に期待だ…!


もっと語りたい笑。素晴らしい出会い。

ボヘミアンカルチャーとかニューヨークの芸術とかについて調べてみたいなあー。

【本】「何者」ぶっ刺されたー

観察とか分析とかしてないで動きますすみませんほんとすみません。


動かないといけないとひしひしと感じる今日この頃。だらだらしてネットで人の意見や行動を批判するだけの生活、だんだんと痛々しくなってゆくのに、「これが本来の自分、何もかもバカバカしく見えてる自分かっこいい」とまで思ってしまっている。


拓人と隆良を足して2でわったようなひねくれた性格で、さらに何も行動してないときた、本当にお前はバカか。


自己否定の裏にある高いプライドと正面から向き合おう。才能も根性もないことを心の底から認めた上でできることからやっていこう。足掻こう。


「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」恋ダンスでも踊るか…。


このブログは黒歴史になりそう。本当にすみません。

人って変わるんだなあ

Twitter見てたら1年半前くらいのつぶやきが自分のものとは思えなくてなんとも言えない気分。こんなに卑屈じゃなくて素直で何かを信じてた頃に戻りたいような戻りたくないような。新しい自分の理解者はまだ居ない。Twitterにもつぶやけなくなって、ブログも誰にも見せるわけでもなくて、ゆっくり話ができる友達も近くにはいなくて、寂しい。

田舎と東京の分断②

(分断についてちょっと前に書いてたもの。まとまりがなさすぎる…)

トランプの大統領選挙当選でアメリカ社会の分断が話題になっている。私は地方から東京の大学に来て生活する中で、18年間生きてきた世界との違いが大きすぎて分断を感じていたので、「そっか気づいていない人多いんだな」という感想を持った。ただのこじつけかもしれないが。

分断を象徴していると思ったのが、中高一貫私立を始めとした進学校で育ってきた人たちの「優秀な人しかいないのが当たり前」という認識である。授業でのプレゼンテーションや事務作業がうまくできない人を責めるような人をちらほら見かけたが、自分にできることが他の人にもできるとは限らないという当たり前の事実を認められないほど、想像力が乏しいのではないか。大学という十分すぎるほど能力的に均質化された環境ですら他人にケチをつけるくらいだから、優秀な人しか居ないようないわゆるエリートコースでしか働けないだろうなと思ってしまった。実際それで生きていけるのだろうから皮肉なことである。

彼らに追いつこうと思って考えることを意識していたら、地元の友達と話が合わなくなった。今まで楽しかった会話が表面的に思えて仕方ないのである。どうやら地方出身あるあるらしい。

地方公立進学校の生徒の評価軸は「部活で活躍しているか」「偏差値の高い国公立大学に合格できそうか」それだけである。ほとんどの生徒はその評価軸を疑うことなく内面化し、受験勉強と部活に励む。ここでも「いい大学に行くことが必要なのか」といったことは一切問われない。

地方の公立中学では、勉強が好きという意思表示をすることは自殺行為に近かった。テストの点数が良いことは罪をかぶるのと同じであり、申し訳なさそうにしないといけない。中学生ごろになると「勉強ができて良い高校・大学に行くと将来は明るくなる」という認識を共有しつつも、全員がその道を進む訳ではないこともわかっている。そのため「みんな勉強は嫌い、嫌いだけどやってる人が成績がいいのだから仕方ない」という、「きつい練習をした人が強くなる」のと同じような物語を共有しないと不公平感が払拭できないのだ。物語の説得力を保つため、「好きだから勉強をして成績がいい」などという生徒の存在は許されないのである。そんな環境であるから「いい学校に行くことが将来を保証すること」を疑うような視点が生まれることはほとんどないであろう。

裏を返せば、中学校はいろいろな社会に散らばってゆく生徒が同じ教室で机を並べて過ごす最後の貴重な時間とも言える。「本が嫌いでテレビと芸能人の話が好き」な人が社会全体では多数派であり、彼らが異星人ではなく隣人であることを身を以て知ることは、社会の指導的地位につく人々にとって重要であると思う。しかし、中高一貫進学校を始めとする均質化されたエリート教育の環境では難しいだろう。

私が高校まで過ごしてきたどの環境にも共通していたのは、メタ的な視点を許さない柔軟性のなさである。自分の置かれている環境を客観的に見ることを許さない同調圧力の下で、子どもは生きてゆくために自分の頭で考えずに所属している社会で常識とされる価値観に従うことを体に叩き込まれる。

このような教育は、どこかで聞いたような言葉を連発するマシーンとそれを賞賛する取り巻きも大量生産しているのではないか。民主主義の崩壊を嘆く大学院生の新聞投書や10万人がフォローする意識高い系のTwitterアカウントがその典型に見えてならない。

自分の意見を持つことを最近初めて知ったので、使い方の加減がわからない。どれくらい共有していいのかがわからないし、柔軟さを持つことが難しい。自分の意見を強化する情報しか集めていないような気もする。対話もできない。