東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

思考について

自分の思考を外に出そうとする時に、一旦表現やそもそも発信すべきか否かを省みることは一般的であろう。その場にいる個人を攻撃する発言であったり、隠しておきたい感情が滲んでしまうような場合は表現を変えたり発言を控えたりすることが必要になる。


しかし、思考の内容を外の基準に照らして修正することが習慣化してしまうと、思考は発展しなくなる。思考は意識して行うプロセスというよりは直感のようなものであり、まず直感を言語化することで初めて言語を用いた空間的ないわゆる「思考」が可能になるからだ。


「思考」の元になるものは、捉えにくいがゆえに無意識のうちに抑圧されることも少なくないだろう。過ごしている環境への適応に不利になるような思考は、特に自分で生活を維持できない子ども時代、発信する前に外の基準に照らす無意識の段階で淘汰されてしまうのではないか。失われた「適応に不利な直感」は、生き残るための条件が異なる環境に身を置くなどの変化がない限り、大人になってもそのまま陽の目を見ることがない。適応に有利な直感だけを用いた思考に意義がないとは言わないが、自然に湧いてくる直感を発展させる方が広く深く「思考」できるのではないだろうか。


よって、思考力を鍛えるには、自由にものを考え発言する場を確保することがカギとなる。また、環境を変えることは難しいが、多様な環境から生まれた他者の直感の結晶としての芸術や論文に触れることは失われかけている直感を取り戻すことに役に立つだろう。


とか思うよーーーーん

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?

自我の呪縛を逃れ社会とつながるには

動くしかない。


「気流の鳴る音」と「被抑圧者の教育学」で、ラテンアメリカに興味わいてきた。相対化とか常識を疑うとか言っても、結局自分の経験の範囲から想像できる範囲にしか思考は及ばないのではないか。(うまく言えない)


そろそろまた異文化に飛び出す季節かな。


どうして人と比べることでしか価値を見いだせないの。どうして自分のことを信じないの。どうして自分のことで精一杯なの。こんな問いに囚われている限り、自我から逃れて社会とつながることはできないの?


本当にじぶんきらい。





青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。



学んだことと学んでいないこと

私にとっての「成長」というのはどこかで聞いた「大人」の条件をひとつずつ受け容れられるかどうかジャッジしていくことのような気がしてきた。とすると、大人としての完成形は考えうる大人の定義を全て自らのものにした存在ということになる。
 
しかし、理想の大人の条件は、実際会ってきた数少ない大人の姿やネットと本で得た情報で構成されているものに過ぎず、概念的なものでしかない。
 
生きていくなかで必要に迫られて身につける素質は人それぞれで、その断片が集合的な大人の条件として見えているだけ、と考えると楽になる。それが最大公約数的なもので必ず自分のものにせねばならぬのだとしたら大人への道が果てしなさすぎて困るが、きっとそんなことはない。人間は勝手に成長するものと考えると、ただ変化を恐れず動き続けていればいいだけだ。
 
大人の条件はその人固有のものとはいえ、同じ社会に適応している人同士は似ることになる。しかしそれを集団で他人に押し付けることで凶器になってしまっているのも垣間見た。
 
 
社会への適応と非適応の間、がやっぱり青年期のテーマだという気がする。狭い社会のルールに盲目的に従い幸せを享受してきた子供時代が終わり、自然には馴染めない他者の間で戸惑った結果なんとなくこのままいったら非適応を極められそうだな、という感覚を得たことによって、従順に社会に適応するだけではない選択肢がおぼろげに見えてきた。自己を環境に完全に溶かす方法ではない適応の仕方。
 
 
人とのつながりが大事だと多くの都会の大人が言うが、それについてもまだ納得していないから受け容れられない。今のところは、人間関係が苦手な人間を苦しめる言説としてなんとも言えない気分になる。これも逃げなのだろうか。人と関わるための努力として思い浮かべるのはSNSを使ったものだが、それはここ十数年の技術で容れ物が変わっただけで、本質的なものはもっと別のところにあると思う。その本質的なものが実感として掴めなくて困っている。
 
容れ物だけではなくて、人間関係の質も変化している気もする。今の大学生活で必要と実感するのは人と素早く打ち解けて薄く継続して人間関係を維持する力で、それには確かにSNSが役に立つ。私はこのやり方がわからなくて、怖くて挑戦もしないから経験値もたまらない。失敗してもいいから殻を破ってみよう。
 
ただ、一昔前まで及び田舎では人の移動が今の都会ほど激しくなく、閉鎖的な空間での限られた人とのうまい付き合いみたいなものが重視されてきたことを考えると、SNS的な人間関係に適応するのが難しいのはなんらおかしなことではないとも言える。時代の先端を突っ走る人間及びそれに憧れて行動を起こす若者が、出る杭として打たれるような環境で覆われていた時代が長かったのだ。今もそういう環境の方が多い気もするけれど。
 
視野の狭い平凡な若者一人が見ている世界などほんの一部で、それを元にした自分の意見を発信することがどうしても恥ずかしいと感じてしまう。しかし、批判を恐れていては何も生まれない。
 
とにかく自分がぽんこつクソ冷酷人間に思えて仕方ないが、そんなこと言うのは終わりにして外に目を向けるしかないのだ。周りの大切な人たちも外。全て外。
 
まとまりがなさすぎる文章になった。それぞれのテーマについてまた改めて書きたい。

【ミュージカル】Rent さいこー!

20周年世界ツアーで東京に来ているブロードウェイのRentを思い立って見に行ったら最高だった。当日券の見切れ席でなんと前から6列目、役者さんの表情がはっきり見える位置で迫力満点のパフォーマンスに圧倒された。字幕が思うように追えなくてストーリーは理解しきれなかったけれど、それでもあまりあるほど伝わってくる愛と生を讃えるメッセージに感動。愛すべきキャラクターたちに生きる勇気をもらえた。


どの曲も素敵だけど、特に好きなのは

La vie Bohème

秩序にとらわれないアウトサイダー的生き方を象徴する芸術賛美の歌!リズムが最高、内容も痛快。込められた細かいメッセージがわからなくてアメリカ人でないのが悔しい笑。


Take Me or Leave Me

これはGleeのCDで聴いたときから好きだった曲。MaureenとJoannを知った上で聴くともっと大好きになった。舞台見てるときは結婚式っていうシチュエーションが全然わからなかった笑。


FinaleB

Mimiが最初にOut Tonightで歌ってから繰り返されてきた印象的なNo Day but Todayのフレーズと、AIDSライフサポートでの"Will I wake tomorrow from this nightmare?"、死に向き合ったWithout youが重なり合って最後に前向きな(のかな違う気がする…)No Day but Todayに収束するの、最高すぎませんか?そのあとAngelが舞台袖から出てきたらそりゃあ泣きますよね。


他にも、One song gloryはRojerの哀しみと力強さあふれる歌い方が、Out TonightはMimiのダンスと吠えるような生命力あふれる歌が、最後の方のRojerとMarkの曲は"We're living in America at the end of the millennium"が最高だし、まあほかもすべて良すぎるわけですよ!


映画のオリジナルキャストたちも本当に素敵だったけれど、Angelだけは今回の舞台のDavid Merinoのイメージで固定されてしまった。ほんとーーーーーーーに可愛いかった。カーテンコールの後の舞台袖への去り方まで可愛くて可愛くてしょうがない。もう2度とあのAngelに会えないと思うと寂しい(T ^ T)彼なんとまだ大学生らしい。これからの活躍に期待だ…!


もっと語りたい笑。素晴らしい出会い。

ボヘミアンカルチャーとかニューヨークの芸術とかについて調べてみたいなあー。