東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

深い話

相手のものの見方とか大事にしているものが垣間見れるような話ができるとものすごく楽しい。ただ同時に自分の薄っぺらさに愕然とするけれど。そして相手の深いところが出てると思うのもこちらの気のせいでしかないかもしれないし、たとえ深くてもその人が大事にしている中心とは似ても似つかない端っこの方の深いところかもしれない。それでも話してる方もそれなりに楽しいと思ってくれていると信じたい。雑談をしばらくの間積み重ねた上で、ほんとにたまーにしかできない話だからこそ貴重な瞬間で、大切にしていきたい。

うん、まあ。

周りの人たちが自分が見ているのとは全く違う世界をある程度共有しているのではないかと思うことがよくあって、そのたびにそんな自分が嫌いだなあと思ってしまう。笑いを交えつつスムーズに会話する方法とか、気づかいを自然にするやり方とか、新しい集団に溶け込んでいくために必要なこととか、みんないったいいつどこで覚えたの…?

自分だけみんなとずれたところを大切にしている。自分だけみんなの会話についていけない。自分だけ…。

そして、自分よりもみんなとのズレの度合いが高い人を見つけると憐れみ、蔑み、嫌悪し、安心する。みんなに溶け込めないことって、そんなにいけないことなの?みんなのルールがいまいちわからないことって、そんなに愚かなことなの?

思考について

自分の思考を外に出そうとする時に、一旦表現やそもそも発信すべきか否かを省みることは一般的であろう。その場にいる個人を攻撃する発言であったり、隠しておきたい感情が滲んでしまうような場合は表現を変えたり発言を控えたりすることが必要になる。


しかし、思考の内容を外の基準に照らして修正することが習慣化してしまうと、思考は発展しなくなる。思考は意識して行うプロセスというよりは直感のようなものであり、まず直感を言語化することで初めて言語を用いた空間的ないわゆる「思考」が可能になるからだ。


「思考」の元になるものは、捉えにくいがゆえに無意識のうちに抑圧されることも少なくないだろう。過ごしている環境への適応に不利になるような思考は、特に自分で生活を維持できない子ども時代、発信する前に外の基準に照らす無意識の段階で淘汰されてしまうのではないか。失われた「適応に不利な直感」は、生き残るための条件が異なる環境に身を置くなどの変化がない限り、大人になってもそのまま陽の目を見ることがない。適応に有利な直感だけを用いた思考に意義がないとは言わないが、自然に湧いてくる直感を発展させる方が広く深く「思考」できるのではないだろうか。


よって、思考力を鍛えるには、自由にものを考え発言する場を確保することがカギとなる。また、環境を変えることは難しいが、多様な環境から生まれた他者の直感の結晶としての芸術や論文に触れることは失われかけている直感を取り戻すことに役に立つだろう。


とか思うよーーーーん

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?

自我の呪縛を逃れ社会とつながるには

動くしかない。


「気流の鳴る音」と「被抑圧者の教育学」で、ラテンアメリカに興味わいてきた。相対化とか常識を疑うとか言っても、結局自分の経験の範囲から想像できる範囲にしか思考は及ばないのではないか。(うまく言えない)


そろそろまた異文化に飛び出す季節かな。


どうして人と比べることでしか価値を見いだせないの。どうして自分のことを信じないの。どうして自分のことで精一杯なの。こんな問いに囚われている限り、自我から逃れて社会とつながることはできないの?


本当にじぶんきらい。





青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。