東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

論理の世界が掬うことのできないなにか

言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。

日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。

ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。


言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。

そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?


『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』

他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。



あたまよくなりたい

今の自分にとってちょっと重要なテーマについて考えてたらわけわかんなくなった。ほんとあたまわるい。

筋道立てて考えるのは苦手で、それを言葉にするのはもっと苦しくて、自分なりに考えて新しい世界の見方を発見したみたいな感動を覚えることがあっても、それを外に出した瞬間に相手にとっては何の価値もないかすでに生きる前提になってるってことがわかるの、なんとも言えない気持ち。

価値のツウヤクフカノウセイかな。タヨウセイ大事にしていきたいね。



深い話

相手のものの見方とか大事にしているものが垣間見れるような話ができるとものすごく楽しい。ただ同時に自分の薄っぺらさに愕然とするけれど。そして相手の深いところが出てると思うのもこちらの気のせいでしかないかもしれないし、たとえ深くてもその人が大事にしている中心とは似ても似つかない端っこの方の深いところかもしれない。それでも話してる方もそれなりに楽しいと思ってくれていると信じたい。雑談をしばらくの間積み重ねた上で、ほんとにたまーにしかできない話だからこそ貴重な瞬間で、大切にしていきたい。

うん、まあ。

周りの人たちが自分が見ているのとは全く違う世界をある程度共有しているのではないかと思うことがよくあって、そのたびにそんな自分が嫌いだなあと思ってしまう。笑いを交えつつスムーズに会話する方法とか、気づかいを自然にするやり方とか、新しい集団に溶け込んでいくために必要なこととか、みんないったいいつどこで覚えたの…?

自分だけみんなとずれたところを大切にしている。自分だけみんなの会話についていけない。自分だけ…。

そして、自分よりもみんなとのズレの度合いが高い人を見つけると憐れみ、蔑み、嫌悪し、安心する。みんなに溶け込めないことって、そんなにいけないことなの?みんなのルールがいまいちわからないことって、そんなに愚かなことなの?

私はフェミニスト

私はフェミニストである…と言いたいところだが、フェミニズムがいまいちわかっていないし、それを表現することによって被るであろうめんどくささに尻込みしてしまう。

でも男女同権主義的主張が好きじゃないと女の私に言う男がいたら、こっちも私はフェミニストだって堂々と言えばいいよね。

まあでも「〇〇の主張(をする人)が苦手」「〇〇に反対」の関係って、別にどちらかが逆でも矛盾しないから相互関係はないのか。「〇〇の主張(をする人の主張の仕方の傾向が)苦手」とか「〇〇の主張(をする人に多い性格が)苦手」であれば、「〇〇に賛成」と両立するし。けどどちらにしても前者の主張にはある程度偏見は入っていそうだし、全体として〇〇にネガティヴなイメージを持っている可能性は高いね。
そういう無意識の判断によって私は「男女同権主義的主張は嫌い」という彼の意見に「男女同権に反対なのかな…?それを女の私に言うってなんかちょっとやめてほしくない…?」というなんとも言えない気持ちになっにのだなあ。実際どうなんだろ、聞いてみればよかった笑。

そしてそんなことを思いながらも何も言わずに「へーそうなんだ」とおとなしく聞いておく私の態度も、「女は人の意見に反対などしないで従っておくほうが品がある」というフェミニズムが無効化しようとしている類の価値観を反映しているものかもしれないというところがまたなんとも言えない。


思考について

自分の思考を外に出そうとする時に、一旦表現やそもそも発信すべきか否かを省みることは一般的であろう。その場にいる個人を攻撃する発言であったり、隠しておきたい感情が滲んでしまうような場合は表現を変えたり発言を控えたりすることが必要になる。


しかし、思考の内容を外の基準に照らして修正することが習慣化してしまうと、思考は発展しなくなる。思考は意識して行うプロセスというよりは直感のようなものであり、まず直感を言語化することで初めて言語を用いた空間的ないわゆる「思考」が可能になるからだ。


「思考」の元になるものは、捉えにくいがゆえに無意識のうちに抑圧されることも少なくないだろう。過ごしている環境への適応に不利になるような思考は、特に自分で生活を維持できない子ども時代、発信する前に外の基準に照らす無意識の段階で淘汰されてしまうのではないか。失われた「適応に不利な直感」は、生き残るための条件が異なる環境に身を置くなどの変化がない限り、大人になってもそのまま陽の目を見ることがない。適応に有利な直感だけを用いた思考に意義がないとは言わないが、自然に湧いてくる直感を発展させる方が広く深く「思考」できるのではないだろうか。


よって、思考力を鍛えるには、自由にものを考え発言する場を確保することがカギとなる。また、環境を変えることは難しいが、多様な環境から生まれた他者の直感の結晶としての芸術や論文に触れることは失われかけている直感を取り戻すことに役に立つだろう。


とか思うよーーーーん

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?