論理の世界が掬うことのできないなにか
言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。
日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。
ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。
言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。
そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?
『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』
他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。
感染する
あたまよくなりたい
深い話
相手のものの見方とか大事にしているものが垣間見れるような話ができるとものすごく楽しい。ただ同時に自分の薄っぺらさに愕然とするけれど。そして相手の深いところが出てると思うのもこちらの気のせいでしかないかもしれないし、たとえ深くてもその人が大事にしている中心とは似ても似つかない端っこの方の深いところかもしれない。それでも話してる方もそれなりに楽しいと思ってくれていると信じたい。雑談をしばらくの間積み重ねた上で、ほんとにたまーにしかできない話だからこそ貴重な瞬間で、大切にしていきたい。
うん、まあ。
思考について
自分の思考を外に出そうとする時に、一旦表現やそもそも発信すべきか否かを省みることは一般的であろう。その場にいる個人を攻撃する発言であったり、隠しておきたい感情が滲んでしまうような場合は表現を変えたり発言を控えたりすることが必要になる。
しかし、思考の内容を外の基準に照らして修正することが習慣化してしまうと、思考は発展しなくなる。思考は意識して行うプロセスというよりは直感のようなものであり、まず直感を言語化することで初めて言語を用いた空間的ないわゆる「思考」が可能になるからだ。
「思考」の元になるものは、捉えにくいがゆえに無意識のうちに抑圧されることも少なくないだろう。過ごしている環境への適応に不利になるような思考は、特に自分で生活を維持できない子ども時代、発信する前に外の基準に照らす無意識の段階で淘汰されてしまうのではないか。失われた「適応に不利な直感」は、生き残るための条件が異なる環境に身を置くなどの変化がない限り、大人になってもそのまま陽の目を見ることがない。適応に有利な直感だけを用いた思考に意義がないとは言わないが、自然に湧いてくる直感を発展させる方が広く深く「思考」できるのではないだろうか。
よって、思考力を鍛えるには、自由にものを考え発言する場を確保することがカギとなる。また、環境を変えることは難しいが、多様な環境から生まれた他者の直感の結晶としての芸術や論文に触れることは失われかけている直感を取り戻すことに役に立つだろう。
内にこもる
自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。
対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?
そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?