【映画】アメリ
今、出会えてよかったと思う作品とまた出会えた。
アメリは突然、世界と調和が取れた気がした
なんてしっくりくる表現なんだろう。 はじめて人に建前が混ざっていない心を開けたと思ったとき、「世界ってこんなに美しかったんだ」「もう何があってもわたしは大丈夫」という気分になった時のことを思い出した。それ以降、キャンパスの新緑や駅までの道のアスファルト、雨の日の夜のバスの窓の色、そんなほんの些細な何かが世界の縁にひっかかって、そこから自分も含めた世界の全てを肯定できるような感覚が1分くらい訪れることがたまにある。まさに「世界と調和がとれている」幸福な時間なのだ。
アメリの自由だ 夢の世界に閉じこもり 内気なまま暮らすのも彼女の権利だ 人間には 人生に失敗する権利がある
少女から大人へと変わる時期、現実と対峙しなければならないときが誰にも来る。夢の世界はあなたを守ってくれる。でも守られているだけではもったいないっていう自分の声が聞こえることだって、たまにあるよね?
君の骨はガラスじゃない 人生という壁にぶつかっても大丈夫だ さあ、行きなさい
囚われからわたしを解放しようとするとき、この言葉を思い出そう。
解釈の問題は、あとでいい
景色が変わっても
いろいろなことがよくわからない。何をどれだけ食べるといいのか、いつ寝ていつ起きればいいのか。どんな体型でどんな服を着てどんな髪型をしていたらいいのか。職業選択のためには今何をすべきなのか。何が甘えで何が仕方ないのか。
わからないいろいろなものは、正解を求めているからわからないのだろう。やりたいことリスト100をつくっても、「自己中なことしか書いてないから実現しなくていい」とかってやるきをなくす。
どこか遠い場所へ移動したって、思い描いている「完璧な私」が実現したって、満足しないしもやもやは尽きない。考え方を変えるしかない。今は動き続けるしかない。
世界を肯定できる瞬間
1日に1分間の幸せなときもなくなり、焦燥感と劣等感と自己嫌悪につつまれる。
私には何もできない
論理の世界が掬うことのできないなにか
言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。
日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。
ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。
言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。
そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?
『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』
他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。