東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

自立の難しさ

大学に進学して1年半と少し。初秋に特有の物悲しさも手伝って、なんとも言えない孤独感のようなものに苛まれている。東京でできた友だちにはめったに本音を話せない、地元の友だちや家族には話したとしてもわかってもらえない、という心が宙ぶらりんの状態が夏頃から続いている。何かを表現しないと心が枯れていく、そんな気持ちで書いているブログだって誰にも読まれない。言葉が誰にも届かなくなったと思えるとき、人は孤独に絡めとられるのだろう。

環境の変化による自分自身の変化にはっきりと気づいたのは、夏休みに帰省したときのことだった。夏は新しく仲良くなった友人たちと深く話をする機会が多くあり、世界を捉えるときの感覚のようなものを彼女たちと共有できるということに感動を覚えた。思春期以来初めて、心から「自分はこのままでいいんだ」と思えた。アイデンティティの確立という青年期の課題達成されたと喜んだ。同じような感覚を持つ人はおそらく少数派である。少数派であるがゆえに、同調圧力が強く価値観が均質化しやすい地元の学校生活では生きやすくするために無意識に抑圧していたが、大学で似たような感覚を持つ人たちと関わることによって開放された、と今は解釈している。

価値観が少し変わったことによって、親や地元の友達とは話が合わなくなった。話したいことを話そうとすると「なんか哲学的だね、考えすぎだよ〜」と言われ、私は釈然としないまま笑って同意し表面的な話題に変える。このような会話を少し前まで私は心から楽しんでいたのか、と信じられない気持ちだった。

過去の自分を思い出しながらもやもやしつつ取り繕うのがしんどくて、早く東京に戻りたいと思ったが、秋の東京で待っていたのは春までとと変わらない、話し相手のいない生活だった。大学も違って忙しい友人たちにはなかなか会えず、授業が始まると精神的に不安定になって帰省した。苦しいということは東京の友達にも地元の友達にも言えなかった。知り合って日の浅い友達に頼るのは気が引けたし、親友に考えすぎと言われるのは嫌だったからだ。結局親に甘えた。まだまだ精神的な自立なんてできなかった。

自分の内面を誰かに理解ほしいという気持ちは贅沢なのだろうか。内面に誰にも興味を持たれていないと感じることがこんなにも虚しいとは。存在自体にしても帰省して授業やサークルをしばらく休んでも誰にも気づかれなかった。そりゃそうか。

家族に精神的に依存してきた状況から、新しい環境に基盤を築くことは難しいし時間がかかる。私を大切に思ってくれる人たちを大切に思いながら、辛抱強く今の場所にに根を張っていきたい。