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東京日記

思ったことや読んだ本の記録。

考えることと自称進学校

考えるということを意識し始めたのは、1年くらい前のことだった。中高とずっと勉強が得意で受験もうまくいき、「私は賢いんだ」と思い込んでいたのに、周りの人より考えられてないと気づいた。

常識を疑いその外に出る、という頭の使い方を、私は最近まで知らなかった。ここでの常識というのは、生きている環境で支配的な価値観という意味で、ここでは中学生や高校生なら学校や友達の中で共有されている「勉強と部活を両立するのが素晴らしい学生生活」というようなごく狭い価値観を例とする。

地方の公立進学校で高校3年間を過ごしたが、学校は嫌いだった。部活と勉強、さらには学校行事にまで精を出す優等生で、受験もうまくいった。友達にも恵まれ、楽しい思い出にあふれているのに、どうしても高校のことを思うと恨みのようなものを感じてしまうのである。

息苦しさとでも言おうか。地方の自称進学校にありがちな、個人よりも学校としての受験の結果を大事にする進路指導方針で、受験は団体戦、難関大学に行けば人生安泰と言わんばかりの高偏差値大学礼賛、一年生の頃から学期末には学年集会で受験までのスケジュールをもとに勉強の心構えなどが説かれた。

最初はそんな空気に反発を覚えたものの、受験期が始まるまでにはすっかり学校の価値観を内面化した。成績が良かった上に難関大学を目指していた私は先生に手厚く指導してもらい、無事合格することができた。卒業後、先生に「そんな態度じゃいくら良い大学に行っても将来成功しないからね」という嫌味を言われても、いらっとはしつつ確かにと納得してしまうくらいだった。この言葉は、「高偏差値の大学に行き素直に規則に従う人が成功できる」という窮屈すぎる価値観をうまく表現していると思う。そんな態度とは、校則より少しスカートが短かったこと。確かに校則を破るのは良くないかもしれないが、卒業生に対して将来をダシにした嫌味てでそのことを注意するのはいかがなものか。成功にしたって、出世のことを言っているのかどうか知らないが、私と先生の思う成功が違っている可能性は高い。このように相対化できればなんてことはないのに、反発する気持ちを自分で正確に捉えることすらできなくなっていたのである。

高校3年間、本も読まずに受験のための勉強をすることに意味はあるだろうか。数百人が同じペースで講義型の授業を受け続け、良い大学を目指し切磋琢磨することが良いことなのだろうか。大学の先の将来に想いを馳せることを抑制されているとは言えないか。

常識を疑う、それは精神を自由にし生きていくために大事なことである。社会に主体的に関わりながら生きるのに必要な頭の使い方である。
しかし誰も教えてはくれない。自分で見つけるしかないのである。賢い人なら環境に関わらず見つけられるのかもしれないが、凡庸な私は窮屈だけど適応するしかないと思い込んでいた。過去の自分に精神だけでも自由になって欲しいと思う一方、適応するのがいちばん苦しくない道であるとも思う。何も言えない。今の中高生にも同じ、何も言えない。

今の私にとっての考える、とは常識を疑うことである。考えることによって何かが生まれるわけではない。考え方は稚拙で穴だらけだろう。そもそも考えられていないのかもしれない。でも、やっと考える初心者になれたのだ、自分なりの方法で生きるための思考力を少しずつ磨いていきたい。