東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

私はどこで生きてゆくのか

※伝えたい人にきちんと伝わるように納得いくまでしっかり言語化して、もうこの問いはしばらく封印したい。前に進みたい。とどまっている暇はない。

悪循環に陥っているという自覚がある。夢なんて持てない。生活リズムの崩壊と運動不足、炭水化物依存で心身ともに疲弊し、とうとう目標が「まともな生活の維持」になってしまった。留学を夢見ていた私はどこへ行ってしまったのだろう。学問に希望を抱いていた私はどこへ行ってしまったのだろう。

東大にいる「彼ら」と「私たち」の違いに驚いた。「彼ら」とは、裕福な家庭に生まれ都会の中高一貫校で教育を受け、当たり前のように東大に入ってきた学友たち。「私たち」とは、田舎の公立中高出身の全国に散らばった同級生たち。自分の周りのことしかわからないけれど、生きてきた世界と彼らの世界に溝が明らかに存在するのは確かだ。それを階層と呼ばずしてなんと呼ぶ。彼らの圧倒的な優秀さに驚き、それまで自分は賢いと思っていたことが恥ずかしくなった。親が官僚や学者だったり、高級住宅地に一軒家を構えていたりするのを聞いても驚かない。

学歴社会を信じるならば、田舎から東大に来た私は階層差を飛び越えるかもしれない存在。ノブレスオブリージュ的なものを背負うべき存在。だけど、「彼ら」には絶対に勝てない。頭のつくりが違う、実家が東京にあるという条件が違う、自信が違う。本当はそこにコンプレックスを持たなくていいことなんて、わかっている。人はそれぞれ置かれている状況は十人十色で、まとめて語ることなんてできないのもわかっている。自分が相当恵まれていて、能力もあるのはわかっている。だけど不安なのだ。

未来を見て前向きにがんばっている友達がたくさんいる。私は何も継続できない。人とのつながりを保てない。得意なことなんてもはや何もない。人と比べることでしか自信を持てない。こういうところで、まだ受験のことを引きずっている。英語はかなり得意だったのに、まともに勉強しなくなってみんなに置いていかれているという意識で勉強が億劫になってしまっている、情けない。

私はいったいこれから社会のどこで生きてゆくのか。社会とどう関わりながら、何を大切に生きてゆくのか。東京に新しく基盤を作る自信はないし、田舎に帰るのはもっと嫌だ。生きる場所が見つからない。不安だ。自分を甘やかしていないで動くしかないのはわかっているけれど、今は何もかも面倒くさい。自分の世話もろくにできない人間に、どんな大志が抱けるというのだ。不必要なコンプレックスにがんじがらめになっているままでは、前に進むことなんてできるわけない。

人と比べるのをやめよう。マイペースに生きていこう。私は私、自分で自分を認める、結局そこに行き着くのだ。