東京日記

痛々しさをつめこむ

田舎と東京の分断①

社会の分断が話題になっていたが、田舎から大学進学で東京に出てきて生活している中で感じる「地方と都市の差」みたいなのが分断の空気感に似ているなーと思って書いてみた。全然うまく書けない。


私は東京にあこがれて実際に進学させてもらえたけれど、文化的には地方都市で手に入るもので十分満足できる体質のようで、東京にいたほうが豊かな文化的なもので思いつくものといえば映画、美術、演劇、コンサートくらい。映画は大ヒットするようなものがたまに見られたらそれで満足だし、美術展は見てもよくわからない。舞台は好きだけれどS席が1万円くらいもするようなポピュラーなものにしか興味がないからどちらにしろなかなか行けない。このような体質は家庭の文化で育まれたものなので、新しい世界を見ようとしなければずっとこのままだろう。だから文化的な面では田舎でも十分満足して生きていける。
ただし文化的なもので唯一地元に馴染めなくなったな、と思うのが図書館や書店で手に取ることのできる本の種類。人文、社会科学系の本しかわからないが、東京と地元では図書館の開架に置いてある本の種類が全く異なっていて、東京の方が大学に置いてある本に近い。学問分野別に体系的に本が並んでいて、専門的な本にもすぐに触れられるのが魅力的。
一方地元の市の中央図書館は、規模は同じくらいだが開架に置いてある本は実用性を重視しているので、仮にある分野の本を全て読んだとしても、点のような知識が得られるにとどまるのではないかという印象。
両者とも利用者のニーズに合わせて本を選んでいるだろうから、手に取ることのできる本の種類の違いは東京と地元に住んでいる人の違いからきていると思う。東京のほうが大学生も大学教育を受けて専門的な知識が必要とされる職業に就いている人も多いだろうし、利用者に若い人が多いのも関係しているかもしれない。
もちろん地元の図書館でも地下書庫には東京の図書館の開架においてあるような本はあるし、今では田舎にいてもネット通販で大概の本は手に入る。どちらがいい悪いというわけではない。しかし、本棚を見上げて歩き、適当に本を手に取りパラパラとページをめくる、というのは頭の中に線を引くためにはとても役に立つ。ピンポイントで読みたい一冊を手に入れるだけでは得られない発見を、関連する本が近くに並ぶ本棚はもたらしてくれる。そういう点でも頭の開発的には東京にいるほうが有利なのではないかと思う。
例えば、範囲が限定されている点としての高校の授業から、関連する分野を広く学んでみようと思って図書館に行っても、得られる知識がまた点ばかりではなんとなく消化不良になるのは当然。自分の意見を持つためにも線を引いていく学びの面白さを味わうことは重要だと思うけれど、私の地元はそのきっかけを得るのすら難しい環境なのではないかと感じる。

(前に書いたもの。
環境が考えることを妨げている、という話。図書館もそのひとつ。)

図書館で手に取ることができる本の違いと、話ができる友達が増えるにつれて地元の家族や友達とどんどん話が合わなくなることは、価値観や文化の違いに起因する点では同じこと。18歳までに培われたものがどこまで影響を持ち続けるのかはわからないが、今の時点でそれが東京の価値観が幅を利かせる大学生活に適応するのを難しくしているのは確か、というか当たり前である。そして、社会階層の上の方に行くという意味での「成功」は東京の競争的な文化や価値観と繋がっているように見える。つまり、田舎出身の東京民が「成功」を目指す場合には、幼少期に積み重ねられた文化資本の差によってだいぶハンデを負ってるんじゃ…?と思うのだ。特定の価値観に対する親和性は人それぞれだから一概には言えないけれど。他の要因も大いに関わるだろうし。

うまくまとめられないけれど、とにかくなんとなく地元が恨めしい気持ちで、けど嫌いなわけじゃなくて友達も家族も大好きだし感謝もしていて、でも絶対戻りたくはなくて、かといって東京で根無し草のまま生きていく自信もない、実家が東京近郊にあって賢くて活動的で自信に溢れるエリート予備軍の学友たちが羨ましくてしかたない、そんな卑屈な気分を引きずってひきこもっている地方出身大学生のつぶやきでした。私はどうしたらいいんでしょうか。