東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

田舎と東京の分断②

(分断についてちょっと前に書いてたもの。まとまりがなさすぎる…)

トランプの大統領選挙当選でアメリカ社会の分断が話題になっている。私は地方から東京の大学に来て生活する中で、18年間生きてきた世界との違いが大きすぎて分断を感じていたので、「そっか気づいていない人多いんだな」という感想を持った。ただのこじつけかもしれないが。

分断を象徴していると思ったのが、中高一貫私立を始めとした進学校で育ってきた人たちの「優秀な人しかいないのが当たり前」という認識である。授業でのプレゼンテーションや事務作業がうまくできない人を責めるような人をちらほら見かけたが、自分にできることが他の人にもできるとは限らないという当たり前の事実を認められないほど、想像力が乏しいのではないか。大学という十分すぎるほど能力的に均質化された環境ですら他人にケチをつけるくらいだから、優秀な人しか居ないようないわゆるエリートコースでしか働けないだろうなと思ってしまった。実際それで生きていけるのだろうから皮肉なことである。

彼らに追いつこうと思って考えることを意識していたら、地元の友達と話が合わなくなった。今まで楽しかった会話が表面的に思えて仕方ないのである。どうやら地方出身あるあるらしい。

地方公立進学校の生徒の評価軸は「部活で活躍しているか」「偏差値の高い国公立大学に合格できそうか」それだけである。ほとんどの生徒はその評価軸を疑うことなく内面化し、受験勉強と部活に励む。ここでも「いい大学に行くことが必要なのか」といったことは一切問われない。

地方の公立中学では、勉強が好きという意思表示をすることは自殺行為に近かった。テストの点数が良いことは罪をかぶるのと同じであり、申し訳なさそうにしないといけない。中学生ごろになると「勉強ができて良い高校・大学に行くと将来は明るくなる」という認識を共有しつつも、全員がその道を進む訳ではないこともわかっている。そのため「みんな勉強は嫌い、嫌いだけどやってる人が成績がいいのだから仕方ない」という、「きつい練習をした人が強くなる」のと同じような物語を共有しないと不公平感が払拭できないのだ。物語の説得力を保つため、「好きだから勉強をして成績がいい」などという生徒の存在は許されないのである。そんな環境であるから「いい学校に行くことが将来を保証すること」を疑うような視点が生まれることはほとんどないであろう。

裏を返せば、中学校はいろいろな社会に散らばってゆく生徒が同じ教室で机を並べて過ごす最後の貴重な時間とも言える。「本が嫌いでテレビと芸能人の話が好き」な人が社会全体では多数派であり、彼らが異星人ではなく隣人であることを身を以て知ることは、社会の指導的地位につく人々にとって重要であると思う。しかし、中高一貫進学校を始めとする均質化されたエリート教育の環境では難しいだろう。

私が高校まで過ごしてきたどの環境にも共通していたのは、メタ的な視点を許さない柔軟性のなさである。自分の置かれている環境を客観的に見ることを許さない同調圧力の下で、子どもは生きてゆくために自分の頭で考えずに所属している社会で常識とされる価値観に従うことを体に叩き込まれる。

このような教育は、どこかで聞いたような言葉を連発するマシーンとそれを賞賛する取り巻きも大量生産しているのではないか。民主主義の崩壊を嘆く大学院生の新聞投書や10万人がフォローする意識高い系のTwitterアカウントがその典型に見えてならない。

自分の意見を持つことを最近初めて知ったので、使い方の加減がわからない。どれくらい共有していいのかがわからないし、柔軟さを持つことが難しい。自分の意見を強化する情報しか集めていないような気もする。対話もできない。