東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

論理の世界が掬うことのできないなにか

言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。

日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。

ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。


言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。

そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?


『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』

他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。