読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

東京日記

思ったことや読んだ本の記録。

『lalaland ラ・ラ・ランド』感想 夢見ることは素敵

期待のミュージカル映画ということで、早速『lalaland』観てきました!


女優を目指すミアと、オリジナルに近いジャズの復活を目指すセブの、どこかで見たことがある感じのラブストーリーで、ところどころにダンスや主演2人の歌が入るけれどミュージカル映画感は薄かったかな。


『セッション』は見たことがないので監督のことも全然知らないし、ラブストーリーも実体験がなくてあまりわからない私がこの映画から受け取ったメッセージは、「やっぱり芸術いいよね!?常識的な価値観に逆らう人、素敵」でした。




<以下ネタバレあり>




ヒロインのミアが元彼を捨ててセブの元へ行った時、その内面の変化がほとんど描かれていないので、かなり唐突に思えました。恋愛未経験女としては理由を見つけないと納得がいかなくて、結局ミアがセブを選ぶ理由が「やっぱビジネスよりアートだわ」にしか思えなかったんですね。


ミアの元彼の兄が中国語を話すバリバリのビジネスパーソンで、ディナーの席での彼らの会話も(細かくは覚えていませんが)テンプレ的な「アートを軽視する経済人」のそれに聞こえました。芸術の道を目指すミアにとっては居心地の悪い席だったことでしょう。そこに流れるセブが弾いていたピアノの曲。これはセブの待つ映画館に行くしかないですよね。


時は流れ、ミアが女優として大成功し家庭を持った後にセブと再会するときにも、「やっぱビジネスよりアートだよね!?ほらね??」という監督の声が聴こえました。あのピアノ曲を聴くミアの、実現することのなかったカラフルな幻想。切ないですね。成功を収め、幸せな生活を送っているけれど、共に夢を追いかけた過去のキラキラした想い出には叶わない。


…はい、まとまらないしなんか違う気がしてきました。まぁとりあえず夢を追いかけよーぜってことですよね笑。


個人的には、圧倒的歌唱力と涙を誘うストーリーのミュージカルが好きなのであまり好みではありませんでした。ミュージカル映画を初めて見て「こんなもんか〜やっぱ唐突に歌ったり踊ったりするのあんま好きじゃないな」と思った人もいるかもしれませんが、ぜひともこれでミュージカル映画を嫌いにならないでほしいですね。機会があったら他にも試してみよーぜ!と言いたい。




将来の計画

仕事はしたいけれど、自分のためだけじゃなく家族のために時間とお金を使いたい。親孝行もいいけれど、次世代にも投資をしたい。学歴社会の先にある競争社会はごめんだけど、余裕を持って生きていけるくらいのお金は欲しい。

ということで、自己実現要素より公共の福祉要素が高めの職業について結婚して子育てがしたい。だれか結婚してください笑。

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?

自我の呪縛を逃れ社会とつながるには

動くしかない。


「気流の鳴る音」と「被抑圧者の教育学」で、ラテンアメリカに興味わいてきた。相対化とか常識を疑うとか言っても、結局自分の経験の範囲から想像できる範囲にしか思考は及ばないのではないか。(うまく言えない)


そろそろまた異文化に飛び出す季節かな。


どうして人と比べることでしか価値を見いだせないの。どうして自分のことを信じないの。どうして自分のことで精一杯なの。こんな問いに囚われている限り、自我から逃れて社会とつながることはできないの?


本当にじぶんきらい。





青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



二十歳の原点

1970年代的なものになんとなく惹かれる。インターネットがなかった時代。今の私と同じ世代の学生が「社会と実存の間で引き裂かれていた」時代。今よりも遠くの他者が同じ時代に考えていることを知ることが難しかった時代に社会の常識を疑い考え行動した若者に、同時代を生きる若者に対してよりも共感と憧れを抱くから、時代背景に惹かれる。

そんなときに出会った高野悦子二十歳の原点』。1969年に20歳になった筆者が、半年後に自殺するまでの日記。時代柄学生運動に関わっていくところが注目されがちだが、私はそこに本質的なものは読み取れなかった。


成人に際し自らの未熟さと孤独を認識し世間に対してしっくりこないものを感じながら、自分を律しようと意志を固めるところ。行動しなければ、と焦燥にかられながらも意見を固めるに苦労するところ。異性に幻想を抱いていることを自覚し悶々と考えるところや、哲学的で聡明な唯一といえる友の存在、惹かれる異性のタイプまで、自分の中で彼女に似ている部分を意識させられずには読めなかった。たまに出てくる感性が強めの私の一部の人格に、生に対する真摯さと激しさを加えたら、ものすごく似ているはずだ。


この日記が救いになるというのは、どういうことだろう。どのように生きれば死なずに生きていけるかという示唆を与えてくれることだろうか。


私はきっと、孤独と矛盾と未熟を捉える感性を青年期に特有のものとして、生活のために矛盾から意図的に目をそらしつつやり過ごすことを選ぶだろう。学生運動のあと何事もなかったように「社会」に適応していった数多の名もなき学生のように。矛盾に決着をつけるために徹底的に行動することにも、思考することにも、私は耐えられそうにない。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

  • 作者: 高野悦子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/05



社会学にできること (ちくまプリマー新書)

社会学にできること (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 西研,菅野 仁
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11


日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。