東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

将来の計画

仕事はしたいけれど、自分のためだけじゃなく家族のために時間とお金を使いたい。親孝行もいいけれど、次世代にも投資をしたい。学歴社会の先にある競争社会はごめんだけど、余裕を持って生きていけるくらいのお金は欲しい。

ということで、自己実現要素より公共の福祉要素が高めの職業について結婚して子育てがしたい。だれか結婚してください笑。

内にこもる

自分と対話するのをやめるとすごく心が楽。やめようと意識している訳ではないけれど、何かを見ないようにしている感じはする。

対話したところで碌でもない答えしか出てこないことがわかっているなら、内にこもるのをこのままやめてしまえばいいんじゃない?

そうすることでなくなってしまいそうな何かを、もったいないなんて思わずに置いていくことが大人になるってことなんじゃない?

自我の呪縛を逃れ社会とつながるには

動くしかない。


「気流の鳴る音」と「被抑圧者の教育学」で、ラテンアメリカに興味わいてきた。相対化とか常識を疑うとか言っても、結局自分の経験の範囲から想像できる範囲にしか思考は及ばないのではないか。(うまく言えない)


そろそろまた異文化に飛び出す季節かな。


どうして人と比べることでしか価値を見いだせないの。どうして自分のことを信じないの。どうして自分のことで精一杯なの。こんな問いに囚われている限り、自我から逃れて社会とつながることはできないの?


本当にじぶんきらい。





青年期やめたい

平均より遅れて青年期の特徴が出てきたみたいだからあと数年は終わらなさそう。中二病も反抗期もほとんどなかったツケが今頃やってくるとは。


理由もなく不安になるのも、抽象的な物事に興味覚えるのも、社会の規範に反発したくなるのも、早く終えて「適応」したい。自我の目覚めが遅くて良かったのか悪かったのか。あと1年ちょっとで就職先を決めるなんて到底できそうにない。こんなに猶予してもらっていてさらに引き延ばすなんてとんでもないけれど、大学院に行った方がその後のキャリアを自分に合ったものにしやすいと思ってしまう。どうしよう。


http://gigazine.net/news/20140701-why-teenager-act-crazy/



二十歳の原点

1970年代的なものになんとなく惹かれる。インターネットがなかった時代。今の私と同じ世代の学生が「社会と実存の間で引き裂かれていた」時代。今よりも遠くの他者が同じ時代に考えていることを知ることが難しかった時代に社会の常識を疑い考え行動した若者に、同時代を生きる若者に対してよりも共感と憧れを抱くから、時代背景に惹かれる。

そんなときに出会った高野悦子二十歳の原点』。1969年に20歳になった筆者が、半年後に自殺するまでの日記。時代柄学生運動に関わっていくところが注目されがちだが、私はそこに本質的なものは読み取れなかった。


成人に際し自らの未熟さと孤独を認識し世間に対してしっくりこないものを感じながら、自分を律しようと意志を固めるところ。行動しなければ、と焦燥にかられながらも意見を固めるに苦労するところ。異性に幻想を抱いていることを自覚し悶々と考えるところや、哲学的で聡明な唯一といえる友の存在、惹かれる異性のタイプまで、自分の中で彼女に似ている部分を意識させられずには読めなかった。たまに出てくる感性が強めの私の一部の人格に、生に対する真摯さと激しさを加えたら、ものすごく似ているはずだ。


この日記が救いになるというのは、どういうことだろう。どのように生きれば死なずに生きていけるかという示唆を与えてくれることだろうか。


私はきっと、孤独と矛盾と未熟を捉える感性を青年期に特有のものとして、生活のために矛盾から意図的に目をそらしつつやり過ごすことを選ぶだろう。学生運動のあと何事もなかったように「社会」に適応していった数多の名もなき学生のように。矛盾に決着をつけるために徹底的に行動することにも、思考することにも、私は耐えられそうにない。

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

  • 作者: 高野悦子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/05



社会学にできること (ちくまプリマー新書)

社会学にできること (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 西研,菅野 仁
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/11


日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。



ぽんこつ甘えったれ女子大生が大学2年間で学んだことと学んでいないこと

学んでいないこと
①学生の本分
勉強、まともにしていない。前期課程を終わらせるのに必要な単位は取り終える予定だが、体系的な知識や思考力、表現力、語学力など全く身についていない。断片的なカリキュラムにも問題はあるが、制度や環境を活かして主体的に学ぶチャンスは山ほどあった。周囲と比べて自信を失い受動的になっていたのがよくなかった。受験勉強のようにインプットするだけではなく、アウトプットを意識して能動的な学びをしよう。

②人付き合い
確かに安定的な人間関係ができにくい環境だったが、作ろうという努力もしなかった。仲の良い先輩や後輩もいないし、大人の知り合いも皆無。連絡不精もいい加減にして、気の合いそうな人には自分からアプローチしよう。そんなに怖くないよ皆。人に頼る方法も覚えていかなくては。

③家事、自己管理能力
掃除と金銭管理がまともにできない。洗濯も料理もあまりしない。食事と睡眠と運動が全てまともでない。気分の浮き沈みが激しく、やるべきことを後回しにして後悔しがち。サボりぐせと責任感の欠如。意志だけでは改善できないのだけはわかるが、具体的にどのような対策をとれば良いかは模索中。

学んだこと
①自分について

②行動するしかないということ
「悩む暇があったら解決作を考えろ」を実践しないといけないとやっと思えてきた。できないけれどできるようにならなくてはいけないことは、あまり頭を使わなくてもできるような仕組みに落とし込もう。
家族が守ってくれる環境はもうすぐ終わり、今の状態にとどまって生きていくことはできない。社会も変化していて、上の世代のやり方を踏襲することもできない。自ら日々変化し続けるしかない。怖くても進むしかない、ということに気づいたから、あとは覚悟を決めて一歩踏み出すだけ。



と、ここまで書いてきて、私にとっての「成長」というのはどこかで聞いた「大人」の条件をひとつずつ受け容れられるかどうかジャッジしていくことのような気がしてきた。とすると、大人としての完成形は考えうる大人の定義を全て自らのものにした存在ということになる。

しかし、理想の大人の条件は、実際会ってきた数少ない大人の姿やネットと本で得た情報で構成されているものに過ぎず、概念的なものでしかない。

生きていくなかで必要に迫られて身につける素質は人それぞれで、その断片が集合的な大人の条件として見えているだけ、と考えると楽になる。それが最大公約数的なもので必ず自分のものにせねばならぬのだとしたら大人への道が果てしなさすぎて困るが、きっとそんなことはない。人間は勝手に成長するものと考えると、ただ変化を恐れず動き続けていればいいだけだ。

大人の条件はその人固有のものとはいえ、同じ社会に適応している人同士は似ることになる。しかしそれを集団で他人に押し付けることで凶器になってしまっているのも垣間見た。


社会への適応と非適応の間、がやっぱり青年期のテーマだという気がする。狭い社会のルールに盲目に従い幸せを享受してきた子供時代が終わり、自然には馴染めない他者の間で戸惑った結果なんとなくこのままいったら非適応を極められそうだな、という感覚を得たことによって、従順に社会に適応するだけではない選択肢がおぼろげに見えてきた。自己を環境に完全に溶かす方法ではない適応の仕方。


人とのつながりが大事だと多くの都会の大人が言うが、それについてもまだ納得していないから受け容れられない。今のところは、人間関係が苦手な人間を苦しめる言説としてなんとも言えない気分になる。これも逃げなのだろうか。人と関わるための努力として思い浮かべるのはSNSを使ったものだが、それはここ十数年の技術で容れ物が変わっただけで、本質的なものはもっと別のところにあると思う。その本質的なものが実感として掴めなくて困っている。

容れ物だけではなくて、人間関係の質も変化している気もする。今の大学生活で必要と実感するのは人と素早く打ち解けて薄く継続して人間関係を維持する力で、それには確かにSNSが役に立つ。私はこのやり方がわからなくて、怖くて挑戦もしないから経験値もたまらない。失敗してもいいから殻を破ってみよう。

ただ、一昔前まで及び田舎では人の移動が今の都会ほど激しくなく、閉鎖的な空間での限られた人とのうまい付き合いみたいなものが重視されてきたことを考えると、SNS的な人間関係に適応するのが難しいのはなんらおかしなことではないとも言える。時代の先端を突っ走る人間及びそれに憧れて行動を起こす若者が、出る杭として打たれるような環境で覆われていた時代が長かったのだ。今もそういう環境の方が多い気もするけれど。

視野の狭い平凡な若者一人が見ている世界などほんの一部で、それを元にした自分の意見を発信することがどうしても恥ずかしいと感じてしまう。しかし、批判を恐れていては何も生まれない。

とにかく自分がぽんこつクソ冷酷人間に思えて仕方ないが、そんなこと言うのは終わりにして外に目を向けるしかないのだ。周りの大切な人たちも外。全て外。

まとまりがなさすぎる文章になった。それぞれのテーマについてまた改めて書きたい。