東京日記

痛々しさをつめこむ

日記の思い出

Twitterで小文字やひらがなをふんだんに使って可愛らしい文面でダイエットについての記録を残しているアカウントを見て、昔ブログを作って記事を1つ書いては消すことを繰り返していたことを思い出した。その中の1つに女の子らしい可愛らしさを演出してダイエットを記録しようとしたものがあったのだ。


結局、ノートに学校での出来事や好きなものについて思うままを書いて「これ残しては死ねない」と思っていたような自分に近い人格が書いているこのブログがいちばん長く続いている。どう見られるかを全く意識しないことはできないにしろ、なるべく「ありのまま」で書く場としてしか、私にとってブログは機能しないのかもしれない。


ノートたちは結局実家の机の奥に残してきたままで家族の誰かに読まれている可能性もあるが、今となっては別にかまわない。死ぬことを意識した数少ない瞬間が、当時好きだった連載漫画の続きを読めなくなると口惜しいだろうなあということと、ノートを読まれるのは恥ずかしすぎるということの2つだけというのは、なんとも幸福な幼少期であるよ。学校での出来事や友達についての日常はもちろん、たまに漫画やファンタジーの世界に没頭して、何ページも書いたり。今は心の琴線に触れる物語に出会っても、その世界に生きる代わりにインターネットで他人の感想を漁るようになってしまった。


ノートを読まれることが死ぬほど恥ずかしいと思っていたのは、家族に見せたことのない一面、特に性に関わる部分を見られることが嫌だったのと、ノートに自分のことを書くということ自体にも後ろめたさを感じていたことが大きな理由だったと思う。性というと大仰だが、小学生のときですら好きな男の子のことを一切話せないくらいには恋愛の話をしない親子だったから、全く新しい自分の面として提示するようで気恥ずかしさがものすごく強かった。今でも、例えば将来恋人ができたとして、婚約するまで親には言えないんじゃないかと思うくらいには恋愛は話題に上げづらい。日記への後ろめたさは、周囲の友達がそんなことをしているような気はしなかったし、自意識過剰=悪という雰囲気も相まって「こんなに自分のことばかり考えているなんて頭がおかしいのでは」という気持ちになっていた。この内向性への抵抗感は最近になるまで意識していなかったけれど、もう少し早く仲間がたくさんいることに気づいていれば楽だったかもなと思うことはある。


全くまとまらないが、このブログはノートの代わりとしてたまに書いていこうと思う。そして、現実でも仲間たちと語らえることの幸せを噛みしめられるようになりたい。