景色が変わっても
いろいろなことがよくわからない。何をどれだけ食べるといいのか、いつ寝ていつ起きればいいのか。どんな体型でどんな服を着てどんな髪型をしていたらいいのか。職業選択のためには今何をすべきなのか。何が甘えで何が仕方ないのか。
わからないいろいろなものは、正解を求めているからわからないのだろう。やりたいことリスト100をつくっても、「自己中なことしか書いてないから実現しなくていい」とかってやるきをなくす。
どこか遠い場所へ移動したって、思い描いている「完璧な私」が実現したって、満足しないしもやもやは尽きない。考え方を変えるしかない。今は動き続けるしかない。
世界を肯定できる瞬間
1日に1分間の幸せなときもなくなり、焦燥感と劣等感と自己嫌悪につつまれる。
私には何もできない
論理の世界が掬うことのできないなにか
言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。
日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。
ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。
言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。
そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?
『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』
他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。
感染する
あたまよくなりたい
深い話
相手のものの見方とか大事にしているものが垣間見れるような話ができるとものすごく楽しい。ただ同時に自分の薄っぺらさに愕然とするけれど。そして相手の深いところが出てると思うのもこちらの気のせいでしかないかもしれないし、たとえ深くてもその人が大事にしている中心とは似ても似つかない端っこの方の深いところかもしれない。それでも話してる方もそれなりに楽しいと思ってくれていると信じたい。雑談をしばらくの間積み重ねた上で、ほんとにたまーにしかできない話だからこそ貴重な瞬間で、大切にしていきたい。