東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

【映画】17歳の肖像(An Education)

これまた今見て正解の映画でしたね。勉強しなきゃと思えました。キャリーマリガンかわいい、服が素敵。映画についてはとりあえずこのくらいにしとこう笑。んで、例のごとく恥ずかしい自分語りしまふ(`・ω・´)

私は21世紀の日本で育って、親も厳しくなくて、ジェニーみたいな「利発で美人」な子とは程遠かったけれど、「どこか遠くへ行きたい」という気持ちはずっと持っていた。ジェニーがフランスに憧れるのと似た感じで(おこがましいか)東京に憧れて、東京に行く手段として勉強ばかりしていたわけだけれど、東京に来ても自信がない冴えない内気な「女の子」のままで、その先どうなりたいかを見つけられていない。(というわけで、今めっちゃカモになりやすいです。けど幸い今のところ誰もカモろうとしてこないですね笑。まぁカモにするような価値もなさそうなんでしょう←こういうところが良くないと思う)

このように、違う国の違う時代の「女の子」にも共感できるような、青春時代の(ミドルクラスの、と入れたほうがいいのかもしれない)女の子に普遍的な感情を描いているから、この映画はすごいのだろう。自分のことを「女の子」ではない言葉で表現できるようになった時にもう一度観たい。別にそれは「〇〇な女性」とは限らなくていいけれど年齢的に成人しても今はまだ「女の子」と表現します。人に言われるとちょっと気持ち悪いけど。

原題の「An Education」の意味は、失敗からの学びと、当時のイギリスの女性にとっての学という2つの意味で捉えた。

なんとなく退屈な日々に今も「ここではないどこか」を目指したくなるけれど、行動と心持ちを変えない限りどこへ行っても同じように退屈で、冴えない自分に文句を言っているだけ。現状は受け入れ、今の積み重ねとしての未来を引き受ける。どこにも理想の場所などなくって、今目の前の人や事に誠実に向き合い続けたいのに、なかなかできていない。

痛々しさは今のうちに存分に発揮して、あとから振り返って死にたくなりましょう!今が堂々と痛々しくいられるチャンスだゾ!中二病満喫しよう!

電車が好き

電車が通り過ぎるのを眺めるのが好きだ。特にカーブしながら駅を通過していくのが。直線の組み合わせが少し離れただけで綺麗なカーブに見えるのがたまらない。  


視覚的な美しさとは別に、電車が好きな一つの理由は、地元に住んでいたときに、どこか遠くへ連れて行ってくれるという希望を託していたことや、それに伴っていた都会への憧れを思い出すからだと思っている。山手線は特に、家族で旅行に来て親の背中について行ったときのわくわく感、渋谷から原宿まで切符を買って乗った修学旅行のときの楽しい緊張感、引っ越してからの自分が東京に住んで日常生活の足として山手線に乗っていることが信じられない気持ちなど、節目節目の思いが詰まっていて、今でもホームに立つとなんとなくそわそわした気分になる。


でも、自分が東京に住んでいることへの違和感がいつのまにかなくなったことに気づいた今、既に少しずつそんな気持ちも薄れてきている気がしていて、それが完全に消えてしまったとき、私はそれでも電車が好きなのだろうか、自信がない。子どもの頃の原風景のような感慨は忘れてしまっても、代わりに今の生活の思い出とともに、山手線とは別の路線や駅がしみじみと懐かしく思えるようになるのかもしれない。それはそれでいいな。  

【映画】アメリ

今、出会えてよかったと思う作品とまた出会えた。  


アメリは突然、世界と調和が取れた気がした


なんてしっくりくる表現なんだろう。 はじめて人に建前が混ざっていない心を開けたと思ったとき、「世界ってこんなに美しかったんだ」「もう何があってもわたしは大丈夫」という気分になった時のことを思い出した。それ以降、キャンパスの新緑や駅までの道のアスファルト、雨の日の夜のバスの窓の色、そんなほんの些細な何かが世界の縁にひっかかって、そこから自分も含めた世界の全てを肯定できるような感覚が1分くらい訪れることがたまにある。まさに「世界と調和がとれている」幸福な時間なのだ。 


アメリの自由だ 夢の世界に閉じこもり 内気なまま暮らすのも彼女の権利だ 人間には 人生に失敗する権利がある


少女から大人へと変わる時期、現実と対峙しなければならないときが誰にも来る。夢の世界はあなたを守ってくれる。でも守られているだけではもったいないっていう自分の声が聞こえることだって、たまにあるよね?


君の骨はガラスじゃない 人生という壁にぶつかっても大丈夫だ さあ、行きなさい


囚われからわたしを解放しようとするとき、この言葉を思い出そう。



解釈の問題は、あとでいい

主観を大事にしよう。それぞれの目から見えている景色に解説文をつけるのは、それを抱きしめて慈しんでからでも遅くない。

すべての感情や感覚は、どんな形であれそれが彼や彼女の本質に触れている限り、他人が安易に扱うことのできるものではないことを忘れてはならない。


景色が変わっても

いろいろなことがよくわからない。何をどれだけ食べるといいのか、いつ寝ていつ起きればいいのか。どんな体型でどんな服を着てどんな髪型をしていたらいいのか。職業選択のためには今何をすべきなのか。何が甘えで何が仕方ないのか。

わからないいろいろなものは、正解を求めているからわからないのだろう。やりたいことリスト100をつくっても、「自己中なことしか書いてないから実現しなくていい」とかってやるきをなくす。

どこか遠い場所へ移動したって、思い描いている「完璧な私」が実現したって、満足しないしもやもやは尽きない。考え方を変えるしかない。今は動き続けるしかない。

論理の世界が掬うことのできないなにか

言葉にでききないものは、存在しないのと同じなのだろうか。

日々生きている中で感じるものって、水を入れすぎたパレットの絵の具みたいに捉えどころなく頭の中に広がっていて、言葉にしようとしても掴みきれない。

ただ、人と共有ためには言葉にしないと仕方がない。


言葉からこぼれ落ちたり、言葉にしようとしてもできなかったり、言葉にしたくなかったりして他の誰とも共有できないものは、永遠に私の外に出ることはない。

そうしたら、その言葉にならなかったものたちって、いったい何なのだろう?私の主観の中にしか存在しないものって、存在するって言えるのか?


『コミュニケーションのためには言語化しないといけない』『「やばい」じゃ伝わらない、何がどうやばいのか説明しよう』

他人やに伝えたり他人から受け取ったりする分にはその通りだけれど、感覚は言語化した瞬間に全く違うものになるという側面もあるから、客観的世界に存在しようがしまいが、ふわふわした感覚のまま自分の中にとどめておくっていうのも大切なんじゃないかな。