東京日記

痛々しさをつめこむ

考えすぎないこと

頭の使い方の傾向として、論理派と感覚派がいるすれば、私はおそらく感覚派である。行動の指針となるのは、いつもなんとなくの直感やひらめきで、行動の理由を言葉で説明できるようになったのは最近のことだ。

感覚派の人は論理派に憧れるが、論理派の人は感覚派になりたいなどとは思わない。それだけ、実生活で論理が必要とされ役に立つものとされているからだろう。しかし、「直感は最強の論理」という説もある。人間の本能的な直感を大切にして考えすぎないほうが何事もうまくいくなどと聞いたこともある。

論理派が多いと思われるコミュニティでは、行動の理由を尋ねられることが多かった。最初は面食らったが、それに対応しているうちに言葉で説明する力がついたと感じる。言葉=論理ではないにしろ、少なくとも直感はそのままでは言語化できないはずなので、言語化ができるようになったのは論理の力を少し手に入れたからだという解釈は間違っていないのではないだろうか。感覚派が論理力を身につけたらきっと最強である。ポジティブにいこう。

とはいえ論理的であることが一体どういうことなのかは、さっぱりわからない。思考という実体が全くつかめないものに関して、大人や学生がこぞって「論理的思考は大事」と言っているようでなんとなく不気味だ。説得のツール?人類共通のルール?なんだそりゃ。人生経験を積めばいつかわかるようになるのか。

最近、人から考えすぎとよく言われる。あなたが考えなさすぎなのでは、となんとなく反発したくなる。しかし自分の内面を材料にして思いを巡らせているのは全くもって非生産的で無駄な営みである、とは思う。考えすぎというよりは、自分の感情に注意を向けすぎているという方が正しい。内向的な性質の価値は認めていきたいが、内側ばかりでなく外側を向いた方が楽だ。思ってばかりいないで外に出て身体を動かそう。