東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

学んだことと学んでいないこと

私にとっての「成長」というのはどこかで聞いた「大人」の条件をひとつずつ受け容れられるかどうかジャッジしていくことのような気がしてきた。とすると、大人としての完成形は考えうる大人の定義を全て自らのものにした存在ということになる。
 
しかし、理想の大人の条件は、実際会ってきた数少ない大人の姿やネットと本で得た情報で構成されているものに過ぎず、概念的なものでしかない。
 
生きていくなかで必要に迫られて身につける素質は人それぞれで、その断片が集合的な大人の条件として見えているだけ、と考えると楽になる。それが最大公約数的なもので必ず自分のものにせねばならぬのだとしたら大人への道が果てしなさすぎて困るが、きっとそんなことはない。人間は勝手に成長するものと考えると、ただ変化を恐れず動き続けていればいいだけだ。
 
大人の条件はその人固有のものとはいえ、同じ社会に適応している人同士は似ることになる。しかしそれを集団で他人に押し付けることで凶器になってしまっているのも垣間見た。
 
 
社会への適応と非適応の間、がやっぱり青年期のテーマだという気がする。狭い社会のルールに盲目的に従い幸せを享受してきた子供時代が終わり、自然には馴染めない他者の間で戸惑った結果なんとなくこのままいったら非適応を極められそうだな、という感覚を得たことによって、従順に社会に適応するだけではない選択肢がおぼろげに見えてきた。自己を環境に完全に溶かす方法ではない適応の仕方。
 
 
人とのつながりが大事だと多くの都会の大人が言うが、それについてもまだ納得していないから受け容れられない。今のところは、人間関係が苦手な人間を苦しめる言説としてなんとも言えない気分になる。これも逃げなのだろうか。人と関わるための努力として思い浮かべるのはSNSを使ったものだが、それはここ十数年の技術で容れ物が変わっただけで、本質的なものはもっと別のところにあると思う。その本質的なものが実感として掴めなくて困っている。
 
容れ物だけではなくて、人間関係の質も変化している気もする。今の大学生活で必要と実感するのは人と素早く打ち解けて薄く継続して人間関係を維持する力で、それには確かにSNSが役に立つ。私はこのやり方がわからなくて、怖くて挑戦もしないから経験値もたまらない。失敗してもいいから殻を破ってみよう。
 
ただ、一昔前まで及び田舎では人の移動が今の都会ほど激しくなく、閉鎖的な空間での限られた人とのうまい付き合いみたいなものが重視されてきたことを考えると、SNS的な人間関係に適応するのが難しいのはなんらおかしなことではないとも言える。時代の先端を突っ走る人間及びそれに憧れて行動を起こす若者が、出る杭として打たれるような環境で覆われていた時代が長かったのだ。今もそういう環境の方が多い気もするけれど。
 
視野の狭い平凡な若者一人が見ている世界などほんの一部で、それを元にした自分の意見を発信することがどうしても恥ずかしいと感じてしまう。しかし、批判を恐れていては何も生まれない。
 
とにかく自分がぽんこつクソ冷酷人間に思えて仕方ないが、そんなこと言うのは終わりにして外に目を向けるしかないのだ。周りの大切な人たちも外。全て外。
 
まとまりがなさすぎる文章になった。それぞれのテーマについてまた改めて書きたい。