東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

【映画】いまを生きる(DEAD POETS SOCIETY) 感想

米国名門パブリックスクールが舞台の青春映画。   

素直に感動することができずもやもや感の残る映画だった。数年後に観たら全く違う感想を抱いていそう、というか抱いていて欲しい。いまを生きることの魅力に気づくことと、それとともに訪れる順応を巡る葛藤は普遍的なものなのかなと思った。   

キーティングが去る時に、教室の全員が立ったわけではないのがよかった。俯いていた生徒たちは一体何を思っていたのだろう? 順応を教え込まれることと、詩的な自己表現を徹底されること、どちらにしろ大きな方針と馴染まない人間は必ずいて、どちらが不気味で抑圧的なのかわからなくはないか?庭を歩き回る授業や内気な生徒に自己表現を迫る授業に「気味が悪い」と思うことと、詰め込み授業に「くだらない」と思うことは非対称なのか?  

このような煮え切らなさを感じさせるのは、物語の舞台が「学校」であるからであろう。 

映画をつくっている人たちは、「詩」を愛する「自由思想家」で、詩的なものを讃える声が作品の背後から聞こえるような気がする。その一方で、礼賛しっぱなしでは終わらないところがよかった。

だからこそ感動しきれないわけだが、今の、目の前に広がる順応しないと生きていけなさそうな道への恐怖心と不安で自由思想家の生き方に少し懐疑心を抱かざるを得ない心情にも寄り添ってくれる。  

 結局何が正しいのかわからない。青臭い相対主義からはまだ抜け出せないようだ。詩的なものと順応は両立すると信じたいことだけは確かだ。彼らが辿るであろう道を自分も一緒に歩んでいくしかない。