東京日記

痛々しさをつめこむ+現実的になるためのメモ

しんどい

しんどいけど、しんどいと家族以外誰にも言えない。「しんどかったけど今は大丈夫」という形で発信してなんとか気持ちを保っている。行動しろと人は言う、けどメールに返信しないから何も始められない。運動しろと人は言う、けど動かずに食べてばかり。夜に眠れと人は言う、けど夜は眠くならないからゲームをしてしまう。清潔にしろと人は言う、けど洗濯も掃除も風呂も全てが面倒くさくて続けない。すべて自分でなんとかするしかないのに、しない。親はとことん甘い。自立できない。助けて。

頭の中は無駄なことばかり、そのほとんどは話題にするには適切でないから、自分と対話するしかない。自分は嫌い、嫌いな人と話し続けていると気が滅入るのは当たり前。だけど人とは共有しない。人の話したいことと私の話したいことはずれているから仕方がない。ネガティブなことは外に出すものではない。ますます人と関わりにくくなる。孤独感がつのる。誰かと話したい。何を話せばいいかどんどんわからなくなっていく。助けて。


私はどこで生きてゆくのか

※伝えたい人にきちんと伝わるように納得いくまでしっかり言語化して、もうこの問いはしばらく封印したい。前に進みたい。とどまっている暇はない。

悪循環に陥っているという自覚がある。夢なんて持てない。生活リズムの崩壊と運動不足、炭水化物依存で心身ともに疲弊し、とうとう目標が「まともな生活の維持」になってしまった。留学を夢見ていた私はどこへ行ってしまったのだろう。学問に希望を抱いていた私はどこへ行ってしまったのだろう。

東大にいる「彼ら」と「私たち」の違いに驚いた。「彼ら」とは、裕福な家庭に生まれ都会の中高一貫校で教育を受け、当たり前のように東大に入ってきた学友たち。「私たち」とは、田舎の公立中高出身の全国に散らばった同級生たち。自分の周りのことしかわからないけれど、生きてきた世界と彼らの世界に溝が明らかに存在するのは確かだ。それを階層と呼ばずしてなんと呼ぶ。彼らの圧倒的な優秀さに驚き、それまで自分は賢いと思っていたことが恥ずかしくなった。親が官僚や学者だったり、高級住宅地に一軒家を構えていたりするのを聞いても驚かない。

学歴社会を信じるならば、田舎から東大に来た私は階層差を飛び越えるかもしれない存在。ノブレスオブリージュ的なものを背負うべき存在。だけど、「彼ら」には絶対に勝てない。頭のつくりが違う、実家が東京にあるという条件が違う、自信が違う。本当はそこにコンプレックスを持たなくていいことなんて、わかっている。人はそれぞれ置かれている状況は十人十色で、まとめて語ることなんてできないのもわかっている。自分が相当恵まれていて、能力もあるのはわかっている。だけど不安なのだ。

未来を見て前向きにがんばっている友達がたくさんいる。私は何も継続できない。人とのつながりを保てない。得意なことなんてもはや何もない。人と比べることでしか自信を持てない。こういうところで、まだ受験のことを引きずっている。英語はかなり得意だったのに、まともに勉強しなくなってみんなに置いていかれているという意識で勉強が億劫になってしまっている、情けない。

私はいったいこれから社会のどこで生きてゆくのか。社会とどう関わりながら、何を大切に生きてゆくのか。東京に新しく基盤を作る自信はないし、田舎に帰るのはもっと嫌だ。生きる場所が見つからない。不安だ。自分を甘やかしていないで動くしかないのはわかっているけれど、今は何もかも面倒くさい。自分の世話もろくにできない人間に、どんな大志が抱けるというのだ。不必要なコンプレックスにがんじがらめになっているままでは、前に進むことなんてできるわけない。

人と比べるのをやめよう。マイペースに生きていこう。私は私、自分で自分を認める、結局そこに行き着くのだ。



現実世界の人が出てくる夢がしんどいわけ

眠りが浅いと、疲れる夢を見る。そういう夢には大抵知人が出てきて、現実世界でのその人との距離感よりも近い距離感で接してくる。おそらく、その人のことが心の底で引っかかっているのに興味があるのに近づけない、という状況を認識させられ、やるせなさともどかしさが混ざったような感情で気疲れするのだろう。片思いの人と仲良くしている夢を見ると、往々にして嬉しさよりも虚しさが募ってしまうのと同じ。

こちらを見てくれない憧れの人より、近くにいるちょっとだけ気になる人と目で会話するほうが何倍もたのしいのとも似てるかも。恋したいな。

小休止

ここ最近もやもや思ってきたことを(やるべきことそっちのけで)書いてみたら、久々に新しく始めたことを三日以上続けられました。せっかくなのでできる範囲で続けてみようと思います。

言葉にして頭の中を整理することで、同じことをぐるぐると考え続けてしまう癖を治すことができればいいなと思います。私は人と考えを共有して意見を交換することで思考が前に進むタイプなのですが、今は思うことを共有できる仲間がほとんどいません。寂しいです。ブログも始めてみたはいいものの人に読んでもらえるような状態になることが想像つかないので、メモのように使用するしかないのかなと思います。

1週間前に考えていたことが他人の考えに思えるほど、めまぐるしく頭の中が変化しています。それを自分で時間差で観察するのも楽しいので、自分で過去の投稿にツッコミを入れるのもありですね。

とりあえず今日はこれだけ。

都会人と田舎人

東京は人が多い。今住んでいる駅は都心まで電車で30分ほどかかる郊外なのだが、とにかく人が多いと感じる。地方なら確実にシャッター街になっているような規模と店の種類の商店街でも、閉まっている店は1つもないしチェーン店もたくさん入っている。土日は家族連れがたくさん公園にいて、ホームセンターも大盛況。地元では物心ついた頃から年々子どもが減り、店も閉まって行く様を目の当たりにしてきたので、ギャップに驚くばかりだ。つい最近、実家の近くの結婚式場が斎場になった。人口構成の変化を如実に反映しているようで、未来の街の様子はお察しだ。

地方の人口減少の一因は少子化と止まらない若者の都市への流出であるのだが、私自身も流出した1人で、将来的に地元に帰る気は全くない。職はない、愛着はない、街の未来に希望もない。我が家は近所付き合いも少なく、小さいころから学校以外地域に特に思い出はない。親もそこに根付いている訳ではなくただ住んで働いているという感じで地域に愛着はないようだ。

東京で生まれ育った友人が、地方へ旅行に行って「田舎には魅力がある、多くの人に行って欲しい」と言っていたり、地域活性化の活動に携わったりしているのを見るとなんとも言えない冷めた気分になるのだが、なぜだろうか。おそらく地方出身であるのに全く地方のことを考えなくなった自分自身への落胆と、都会人に田舎のことがわかるかよという、傲慢な冷やかしの目線である。

東京に引っ越してきた当初は地方と都会のギャップに驚き、事あるごとに両者を比べては都会の有利さを地方にも少しはもたらせないのかと義憤に駆られたりしたものだが、1年半経ってすっかりそんな気持ちもなくなった。最初は「地方」は自分の生まれ育った土地を意味していたが、時間の経過とともに愛着が薄れ、また将来に地元に住むという選択肢がほぼなくなったことによって「地方」が任意の土地を指すようになり、地方の話題に当事者性を持てなくなったのだろう。

そんな田舎人もどきの私が、数々の地方に実際に行き、ある種異文化からの目線でもって魅力を体感し、さらにそれを発信してゆく都会人の彼らを冷やかしの目で見るなどというのは、明らかに愚行である。暖かく応援しなくてはならない。しかし、複雑な気分は拭えない。私の故郷に住んだとしても魅力があると言えるのか?と試したいのかもしれない。自然や美味しい食材など、彼らが良く言うような一般的な田舎としての魅力は理解しているつもりだが、それ以外は何もない。本当に何もない。彼らと私、都会人と田舎人は、見ている世界が違うのであろう。

考えすぎないこと

頭の使い方の傾向として、論理派と感覚派がいるすれば、私はおそらく感覚派である。行動の指針となるのは、いつもなんとなくの直感やひらめきで、行動の理由を言葉で説明できるようになったのは最近のことだ。

感覚派の人は論理派に憧れるが、論理派の人は感覚派になりたいなどとは思わない。それだけ、実生活で論理が必要とされ役に立つものとされているからだろう。しかし、「直感は最強の論理」という説もある。人間の本能的な直感を大切にして考えすぎないほうが何事もうまくいくなどと聞いたこともある。

論理派が多いと思われるコミュニティでは、行動の理由を尋ねられることが多かった。最初は面食らったが、それに対応しているうちに言葉で説明する力がついたと感じる。言葉=論理ではないにしろ、少なくとも直感はそのままでは言語化できないはずなので、言語化ができるようになったのは論理の力を少し手に入れたからだという解釈は間違っていないのではないだろうか。感覚派が論理力を身につけたらきっと最強である。ポジティブにいこう。

とはいえ論理的であることが一体どういうことなのかは、さっぱりわからない。思考という実体が全くつかめないものに関して、大人や学生がこぞって「論理的思考は大事」と言っているようでなんとなく不気味だ。説得のツール?人類共通のルール?なんだそりゃ。人生経験を積めばいつかわかるようになるのか。

最近、人から考えすぎとよく言われる。あなたが考えなさすぎなのでは、となんとなく反発したくなる。しかし自分の内面を材料にして思いを巡らせているのは全くもって非生産的で無駄な営みである、とは思う。考えすぎというよりは、自分の感情に注意を向けすぎているという方が正しい。内向的な性質の価値は認めていきたいが、内側ばかりでなく外側を向いた方が楽だ。思ってばかりいないで外に出て身体を動かそう。

考えることと自称進学校

考えるということを意識し始めたのは、1年くらい前のことだった。中高とずっと勉強が得意で受験もうまくいき、「私は賢いんだ」と思い込んでいたのに、周りの人より考えられてないと気づいた。

常識を疑いその外に出る、という頭の使い方を、私は最近まで知らなかった。ここでの常識というのは、生きている環境で支配的な価値観という意味で、ここでは中学生や高校生なら学校や友達の中で共有されている「勉強と部活を両立するのが素晴らしい学生生活」というようなごく狭い価値観を例とする。

地方の公立進学校で高校3年間を過ごしたが、学校は嫌いだった。部活と勉強、さらには学校行事にまで精を出す優等生で、受験もうまくいった。友達にも恵まれ、楽しい思い出にあふれているのに、どうしても高校のことを思うと恨みのようなものを感じてしまうのである。

息苦しさとでも言おうか。地方の自称進学校にありがちな、個人よりも学校としての受験の結果を大事にする進路指導方針で、受験は団体戦、難関大学に行けば人生安泰と言わんばかりの高偏差値大学礼賛、一年生の頃から学期末には学年集会で受験までのスケジュールをもとに勉強の心構えなどが説かれた。

最初はそんな空気に反発を覚えたものの、受験期が始まるまでにはすっかり学校の価値観を内面化した。成績が良かった上に難関大学を目指していた私は先生に手厚く指導してもらい、無事合格することができた。卒業後、先生に「そんな態度じゃいくら良い大学に行っても将来成功しないからね」という嫌味を言われても、いらっとはしつつ確かにと納得してしまうくらいだった。この言葉は、「高偏差値の大学に行き素直に規則に従う人が成功できる」という窮屈すぎる価値観をうまく表現していると思う。そんな態度とは、校則より少しスカートが短かったこと。確かに校則を破るのは良くないかもしれないが、卒業生に対して将来をダシにした嫌味てでそのことを注意するのはいかがなものか。成功にしたって、出世のことを言っているのかどうか知らないが、私と先生の思う成功が違っている可能性は高い。このように相対化できればなんてことはないのに、反発する気持ちを自分で正確に捉えることすらできなくなっていたのである。

高校3年間、本も読まずに受験のための勉強をすることに意味はあるだろうか。数百人が同じペースで講義型の授業を受け続け、良い大学を目指し切磋琢磨することが良いことなのだろうか。大学の先の将来に想いを馳せることを抑制されているとは言えないか。

常識を疑う、それは精神を自由にし生きていくために大事なことである。社会に主体的に関わりながら生きるのに必要な頭の使い方である。
しかし誰も教えてはくれない。自分で見つけるしかないのである。賢い人なら環境に関わらず見つけられるのかもしれないが、凡庸な私は窮屈だけど適応するしかないと思い込んでいた。過去の自分に精神だけでも自由になって欲しいと思う一方、適応するのがいちばん苦しくない道であるとも思う。何も言えない。今の中高生にも同じ、何も言えない。

今の私にとっての考える、とは常識を疑うことである。考えることによって何かが生まれるわけではない。考え方は稚拙で穴だらけだろう。そもそも考えられていないのかもしれない。でも、やっと考える初心者になれたのだ、自分なりの方法で生きるための思考力を少しずつ磨いていきたい。